第二海上護衛隊
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「夕張 (軽巡洋艦)」の記事における「第二海上護衛隊」の解説
太平洋戦争開戦以来、日本軍の海上護衛任務や輸送任務は連合艦隊・各鎮守府・警備府が分担していたが、作戦地域の拡大と輸送航路の延長により、海上護衛を専門に行う部隊を編成することになった。1942年(昭和17年)4月10日附で特設海上護衛隊(第一海上護衛隊、第二海上護衛隊)が編成され、聯合艦隊の麾下に入る。第一海上護衛隊は内地~東南アジア方面を、第二海上護衛隊(司令官茂泉愼一中将/第四根拠地隊司令官兼任)は内地~ラバウルまでの東南太平洋海域の護衛を担当した。第一海上護衛隊は戦力弱小ながら旧式駆逐艦(睦月型駆逐艦、神風型駆逐艦、若竹型駆逐艦)を擁していたが、第二海上護衛隊は特設艦船3隻(能代丸、長運丸、金城山丸)のみという弱体戦力で、5月4日には金城山丸が米潜水艦に撃沈された。 1942年(昭和17年)7月10日、第六水雷戦隊は解隊される。この措置にともない、旧六水戦構成兵力(夕張、第29駆逐隊《夕月、追風、朝凪、夕凪》、第30駆逐隊《睦月、弥生、望月、卯月》)は第二海上護衛隊へ編入された。だが第30駆逐隊は7月14日附で、新編成の第八艦隊(司令長官三川軍一中将)へ転籍した。また夕張と第29駆逐隊も第四艦隊の命令によりソロモン諸島やニューギニア方面での作戦に従事していた。このため、6月から7月にかけて海上護衛任務に従事したのは特設艦船2隻(能代丸、長運丸)という状態だった。第二海上護衛隊の特設巡洋艦や他部隊応援艦(駆潜艇など)は、各航路の護衛に奔走することになった。8月5日、第二海上護衛隊から能代丸が除かれ、特設巡洋艦浮島丸が編入される。 詳細は「第一次ソロモン海戦」を参照 8月7日、アメリカ軍はウォッチタワー作戦を発動、ガダルカナル島とフロリダ諸島に上陸を開始してガダルカナル島の戦いが始まった。外南洋部隊指揮官三川軍一中将(第八艦隊司令長官)は旗艦/重巡鳥海、第六戦隊(青葉、加古、古鷹、衣笠)を率いてガダルカナル島ルンガ泊地への突入を企図する。このときラバウルにあった「夕張」、「夕凪」や第十八戦隊の「天龍」は旧式、訓練不足で足手まといと見られていたものの、第十八戦隊司令官などの要望を受けて作戦に参加することになったが、夜戦の邪魔にならないようにと後方に配置された。同日、「鳥海」、「天龍」、「夕張」、「夕凪」はラバウルを出撃し、ラバウル港外で第六戦隊と合流した。進撃中、「夕張」では機関でトラブルが発生した。まず復水器の腐蝕口からの海水混入により罐水の塩分濃度が上昇し、それによって湿潤蒸気がタービンに送り込まれたことでタービン1機が故障。中央機使用停止で2軸運転となったが、幸いにも艦隊に同行できるだけの速度(26ノット)は発揮できたため落伍はまぬがれた。このように機関の不調を抱えながらであったが、8月8-9日の第一次ソロモン海戦において、夕張は連合国軍艦隊の撃破に貢献した。戦闘中、重巡古鷹、軽巡天龍・夕張から砲撃されて損傷した米駆逐艦パターソンは、『最上型重巡洋艦、神通型軽巡洋艦、香取型練習巡洋艦と交戦』と報告している。夜戦でほとんど損害を受けなかった第八艦隊だが、ラバウル帰投の4隻(鳥海、天龍、夕張、夕凪)、カビエン帰投の第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)に分離したあと、米潜水艦S-44の雷撃で重巡加古を喪失した。 夕張と第29駆逐隊は8月下旬までソロモン方面作戦に従事した。 ソロモン諸島での行動を終えた第二海上護衛隊各艦(夕張、追風、夕凪、夕月)は、8月下旬迄にトラック泊地へ到着(夕張は8月20日トラック帰着)。続いて夕張と第29駆逐隊(追風、夕凪、夕月)はナウル島とオーシャン島攻略作戦に従事する。9月上旬にトラック泊地に戻ったあと、夕張はマーシャル諸島方面に進出。9月18日、2隻(夕張、夕月)はギルバート諸島掃蕩戦に従事、各隊と協力しアメリカ軍の情報通信網を掃蕩した。9月25日から29日にかけて、夕張はトラック泊地からパラオに向かう輸送船3隻(妙高丸、良洋丸、立石丸)を護衛する。9月29日、夕張は輸送船3隻の護衛を駆逐艦白露(第27駆逐隊)に引き継いだ。 ソロモン諸島やニューギニア方面の戦局激化にともない中部太平洋方面の重要性が増し、第二海上護衛隊の任務も重大化した。だが第二海上護衛隊は兵力微弱のため、他部隊からの応援を得て辛うじて護衛任務を遂行していた。10月上旬、駆逐艦旗風(横須賀鎮守府警備駆逐艦)が第二海上護衛隊に臨時編入。第二海上護衛隊(夕張、第29駆逐隊《追風、夕凪、朝凪、夕月》、浮島丸、長運丸)や他部隊応援艦(旗風、峯風等)は、トラック泊地やパラオを拠点として、中部太平洋各方面の船団護衛任務に従事した。10月中旬、夕張はパラオからラバウルまで、沼兵団の輸送船4隻を護衛する。10月21日、パラオ帰着。トラック泊地を経由して、10月31日タラワに到着。3隻(夕張、夕凪、朝凪)はマーシャル方面防備隊に編入され(朝凪は中旬から)、タラワやヤルート方面で行動した。 12月1日、夕張は修理と整備のためヤルート環礁を出発。12月5日サイパンを経由し、内地に向かった。12月9日、横須賀に帰投。以降は横須賀で修理・整備を実施した。1943年(昭和18年)1月、2月、横須賀に所在。3月22日、特設水上機母艦神川丸を護衛して横須賀を出撃し、3月28日トラック泊地に到着した。すぐに2隻(夕張、神川丸)はトラックを出港、4月1日ラバウル(ニューブリテン島)に到着した。
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第二海上護衛隊
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1942年(昭和17年)7月10日、第六水雷戦隊は解隊される。同時に構成兵力(夕張、第29駆逐隊〈夕月、追風、朝凪、夕凪〉、第30駆逐隊〈睦月、弥生、望月、卯月〉)は第二海上護衛隊に編入された。だが第30駆逐隊が第二海上護衛隊として護衛作戦に従事する機会は訪れず、わずか4日で14日新編の第八艦隊に編入された。また従来の南洋部隊は、外南洋部隊(指揮官は第八艦隊司令長官)の新編にともない、内南洋部隊となった。 佐世保で修理・整備に従事していた「朝凪」は、第二海上護衛隊編入直後の7月11日にラバウルに向けて内地を出撃する。7月13日、現地陸海軍は『「リ」号研究作戦協定覚書書』を締結する。翌14日、東部ニューギニア攻略部隊指揮官(第十八戦隊司令官)は攻略命令を下令、朝凪は第二警戒隊(指揮官は朝凪駆逐艦長:朝凪、夕月、卯月)に区分された。18日、朝凪はニューブリテン島ラバウルに到着して夕張以下僚艦と合流する。 当時フィリピンのダバオでは、大本営陸軍部参謀辻政信陸軍中佐が第17軍(司令官百武晴吉陸軍中将、参謀長二見秋三郎陸軍少将)を訪問し、第17軍に対しオーエンスタンレー山脈を越えてポートモレスビーを目指す「リ号研究作戦」の実施を指示していた。辻参謀の独断にのせられた第17軍は、18日になり南海支隊長堀井富太郎陸軍少将に対し「海軍と協力してすみやかにポートモレスビーと東部ニューギニア要地を攻略す。南海支隊はブナ~ココダ道(山脈越え)によりポートモレスビーを攻略、歩兵第35旅団一部は海上からポートモレスビー東方に上陸す」と命じた。まずラバウル所在の横山先遣隊がパプアニューギニアのブナに上陸することになった(ココダ道の戦い)。 7月20日、東部ニューギニア攻略部隊および横山先遣隊の輸送船2隻(良洋丸、綾戸山丸)はラバウルを出撃、ブナにむかった。21日深夜から22日朝にかけてゴナで揚陸を開始したが、空襲で「綾戸山丸」が被弾して擱坐、至近弾で「卯月」が小破した。24日、第17軍司令部と辻参謀は航空便でラバウルに到着した。辻が巡洋艦を訪れて「ブナ視察をしたい」と申し出ると、「朝凪」を指定されたという。25日、第17軍は大本営陸軍部から「第17軍の研究作戦の結果を待ちつつある」との電報をうけ、辻参謀の独断を悟った。この時点で、横山先遣隊はブナとゴナに進出済みであった。同25日、「朝凪」は辻政信陸軍中佐を乗せてラバウルを出撃する。これは第八根拠地隊の物件輸送と、辻参謀による横山先遣隊の激励および現地偵察を企図していた。辻によれば、「朝凪」の対空火器は応急的に取り付けた機銃四挺だけだったという。ブナに向かう途中の7月26日夕刻、連合軍双発爆撃機の空襲を受け、回避行動中にキラートン岬で触礁してスクリューを損傷、最大発揮速力16ノットに低下する。至近弾により艦には250か所以上の穴が開き、19人が戦死、重軽傷者65人を出す。負傷者には辻参謀も含まれる。7月28日、辻参謀を乗せた「朝凪」はラバウルに帰投した。辻参謀は大本営陸軍部にあてて「七月末「ブナ」附近ノ制空権ハ敵手ニ在リ、海軍ノ航空実力ハ使用シ得ルモノ戦闘機約二〇、爆撃機三〇ノミナルモ其ノ実情ハ軍令部ニ通ジアラズ」と打電した。「朝凪」は修理のため内地へ帰投することになった。 8月5日、第二海上護衛隊から特設巡洋艦「能代丸」が除かれ、特設巡洋艦「浮島丸」が編入される。10日、二海護(朝凪、長運丸)は輸送船2隻(五洋丸、山福丸)を護衛してトラック泊地を出発、23日横須賀に到着した。「朝凪」は横須賀で修理をおこなった。9月下旬より、内地~ラバウル間の陸軍輸送作戦「沖輸送」に従事する。9月29日、第二船団(ぶらじる丸、伊太利丸)は朝潮型駆逐艦「朝潮」に護衛されて佐伯を出発、「朝凪」は北緯14度線で護衛をひきつぎ、「朝潮」は横須賀に戻った。10月10日、第二船団はラバウルに到着した。 同月8日付で、朝凪駆逐艦長は花見弘平少佐から尾辻秀一大尉に交代した。同時期の第二海上護衛隊は、軽巡「夕張」と第29駆逐隊(追風、夕凪、朝凪、夕月)、特設艦船(浮島丸、長運丸)、駆逐艦「旗風」(横須賀鎮守府部隊より臨時編入)であった。これら艦艇に加え、他部隊応援艦により中部太平洋方面の護衛任務に従事した。 1943年(昭和18年)2月15日、第三特別根拠地隊の新編にともない、「朝凪」はギルバート方面防備部隊直率部隊に編入された。3月上旬、ヤルート近海で燃料切れで不時着した飛行艇を捜索し、発見後は曳航と燃料補給をおこなった。4月1日、第29駆逐隊は解隊された。3隻(朝凪、追風、夕月)は引き続き海上護衛任務に従事する。一方「夕張」と「夕凪」は外南洋部隊(第八艦隊)に編入され、海上護衛隊より除かれた。同時期になると、新型海防艦や鴻型水雷艇が二海護に順次編入された。 6月15日、日本軍はミレ島の防備を強化するため第66警備隊(司令志賀正成大佐、海兵48期)を新編した。ミレ増強部隊は空母「翔鶴」に乗艦してトラック泊地に進出し、つづいて7月17日に2隻(那珂、朝凪)に分乗して同地を出発、20日ミレに到着した。7月24日、駆逐艦「玉波」が護衛していたタンカー「第三図南丸」がアメリカ軍潜水艦ティノサ (USS Tinosa, SS-283) の雷撃で航行不能となった。トラック泊地の軽巡「五十鈴」は、ミレから戻ったばかりの「朝凪」を連れて直ちに出撃、翌25日に「第三図南丸」と合流した。救難部隊の協力により、「第三図南丸」はトラック泊地にたどり着いた。8月8日、サイパンを出発して横須賀にむけ航行中の「朝凪」と「鳴戸丸」(7,148トン、第十一航空艦隊給兵艦)を潜水艦ホエールが襲撃し、「鳴戸丸」を撃沈した。「朝凪」は約300名を救助した。8月中旬、「追風」と「朝凪」は佐世保で修理と整備をおこなった。 10月20日、朝凪駆逐艦長は尾辻秀一少佐から大西快治大尉に交代した。また新艦長(大西大尉)着任当時の「朝凪」は、老朽化のため速力30ノットを発揮できない状態だった。 11月15日、日本海軍は海上護衛総司令部(司令長官及川古志郎大将)を設立した。第一海上護衛隊と第二海上護衛隊も、海上護衛総司令部麾下に入る。同月末時点での第二海上護衛隊は、駆逐艦2隻(追風、朝凪)、海防艦複数隻(隠岐、福江、御蔵、平戸、天草、満珠)、鴻型水雷艇2隻(鴻、鵯)、長運丸となっていた。
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第二海上護衛隊
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「追風 (2代神風型駆逐艦)」の記事における「第二海上護衛隊」の解説
1942年(昭和17年)7月10日、第六水雷戦隊は解隊され、所属艦・部隊(夕張、第29駆逐隊〈夕月、追風、朝凪、夕凪〉、第30駆逐隊〈睦月、弥生、卯月、望月〉)は第二海上護衛隊に転じた。第二海上護衛隊(司令官は第四根拠地隊司令官兼任)は第四艦隊の隷下において4月10日に新編されたが、特設艦船3隻のみという弱小部隊であった。第30駆逐隊は7月14日付で編制された第八艦隊に編入されたため、実際には夕張と第29駆逐隊が第二海上護衛隊に所属した。ガダルカナル島の戦い勃発直後の8月13日、第29駆逐隊の追風と僚艦はヘンダーソン飛行場基地に対する艦砲射撃を実施した。8月15日、追風は横須賀鎮守府第五特別陸戦隊113名をのせてラバウルを出発、17日にガダルカナル島タサファロングへ揚陸した。その後、追風はトラック泊地に戻り、同地を拠点に船団護衛任務に従事した。 1943年(昭和18年)4月1日、第八艦隊司令長官は三川軍一中将から鮫島具重中将に交代する。鮫島中将の後任として、小林仁中将が第四艦隊司令長官に任命された。同日付で第29駆逐隊と第34駆逐隊は解隊された。追風は佐世保海軍工廠で修理を実施、修理中に艦後部の魚雷発射管や一部の主砲を撤去し、対空機銃を増強していた。 10月初旬、追風は給糧艦間宮を含む輸送船団を護衛し、横須賀を出発した。10月12日、アメリカ潜水艦セロの雷撃で間宮が大破、航行不能となった。間宮の救難をおこなっているうちに追風の燃料が乏しくなり、追風は救援にきた駆逐艦潮(第7駆逐隊)に間宮警戒を引き継ぎ、小笠原諸島父島に入港して燃料を補給する。その後、ふたたび間宮の護衛に戻った。間宮は朝風丸に曳航され(途中から潜水母艦迅鯨に交替)、軽巡五十鈴(第十四戦隊)や海防艦壱岐等に護衛され、呉に帰投した。追風は別の船団を護衛し、内海西部からトラック泊地にむかった。
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第二海上護衛隊
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1942年(昭和17年)4月10日、日本海軍は大海令第十七号をもって第四艦隊司令長官井上成美中将に対し、海上交通保護の実施を命じた。続いて軍令部総長は、同日付の大海指第八十二号をもって、第二海上護衛隊の任務を「本邦沿岸(北緯29度以北)第四保護海域間航路及第四保護海域内航路ノ船団護衛、第四保護海域内船舶行動管制ノ統括」と指示した。すなわち第二海上護衛隊は、横須賀-トラック環礁・パラオ諸島間の東西2航路の防衛を任務として第四艦隊(南洋部隊)隷下に編成された(略語、2KEg)。第二海上護衛隊の指揮官は、第四根拠地隊司令官茂泉慎一中将(トラック所在、略語4Bg)が兼務する(司令部職員も同等)。編制当時の交通保護担任区域(第四保護海域)は、小笠原諸島を経由してマリアナ諸島で東西に分岐し、東航路はトラックを終点とし、西航路はパラオを終点としていた。北端は横須賀(本州)、南端はニューギニア島およびラバウル(ニューブリテン島)であった。なお東航路の延長線にはカロリン諸島・マーシャル諸島・ギルバート諸島・ビスマーク諸島・ソロモン諸島があり、西航路の延長線上には西ニューギニア・スンダ列島・ミンダナオ島が存在していた。 長大なシーレーンを担当するにもかかわらず、当初は運航統制班と特設艦艇3隻(能代丸〈最大速力13ノット〉、長運丸〈最大速力11ノット〉、金城山丸〈最大速力約14ノット〉)からなる1個戦隊しか充当されなかった。このため、大本営海軍部は「一、武装船舶および13ノット以上の船舶は原則として単独航行させる。 二、航路全体の護衛は不可能なので、護衛は機会的・局地的に限定する。」という指示を与えた。3隻の護衛は、おもにサイパン ― トラック ― ラバウル間に重点を置いて実施された。創設から1ヶ月もたたない5月4日、トラック北西方面において特設巡洋艦金城山丸が米海軍潜水艦に撃沈される。第二海上護衛隊の戦力は、特設巡洋艦2隻のみとなる。そこで第四艦隊(南洋部隊)隷下の第六水雷戦隊(軽巡洋艦夕張、第29駆逐隊、第30駆逐隊)が護衛に協力し、さらに6月中旬には第四艦隊に多数の駆潜艇が配備される。7月10日には、内南洋平定を終えて遊兵化していたを第六水雷戦隊を解隊して所属艦艇を第二海上護衛隊に編入し、ようやく対潜能力を備えた船団護衛部隊として一応完成した。8月5日には能代丸が除かれ、第一海上護衛隊より特設巡洋艦浮島丸を二海護に編入した。担当海域の広さに対して護衛戦力は不足しており、各鎮守府や連合艦隊の艦艇も臨時に内南洋部隊の指揮下に入り、護衛作戦に従事している。 ソロモン諸島の消耗戦が長期化して前線の駆逐艦が不足すると、第二海上護衛隊所属の神風型駆逐艦や睦月型駆逐艦もソロモンに引き抜かれ、順次、鴻型水雷艇や新型海防艦に置き換えられた。1943年(昭和18年)11月15日に海上護衛総司令部が設立されると(既述)、第二海上護衛隊も麾下に入った。第二海上護衛隊の担当航路は、トラック航路・トラック泊地~パラオ間と定められた。 1944年(昭和19年)2月17日にトラック環礁は大空襲を受けて基地機能が失われたため、航路の終点はサイパン島まで後退した(3月1日の大海指第340号により、トラック~パラオ航路を、サイパン~パラオ航路に改定)。また従来の第二海上護衛隊司令官はトラック泊地を拠点とする第四根拠地隊司令官との兼任だったが、この改定により在サイパンの第五根拠地隊司令官が二海護司令官を兼任することになった。 3月4日、日本軍は第四艦隊と第14航空艦隊をもって中部太平洋方面艦隊(司令長官南雲忠一中将)を新編(艦隊区分においては中部太平洋方面部隊)、マリアナ諸島の強化を企図した。サイパン島航路は絶対国防圏強化のための重要航路とされ、第二海上護衛隊にくわえて連合艦隊の増援を得て松輸送の名の下で護衛および輸送作戦が行われた。輸送作戦はおおむね成功したが(護衛艦のべ64隻、加入船舶のべ100隻、損害3隻)、松輸送後におこなわれた第3530船団が大損害を受けるなど、被害を完全に食い止めることはできなかった。6月にはサイパン島上陸に向けたアメリカ機動部隊による航空攻撃も加わり、担当航路は途絶した。第二海上護衛隊司令官の辻村武久少将はサイパン島の地上戦で戦死し、同島は7月6日に陥落した。7月18日付でサイパン島守備隊玉砕が公表され、中部太平洋方面艦隊と共に第二海上護衛隊も解隊された。
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