東南アジア方面
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/21 06:45 UTC 版)
ラームカムヘーンは近隣諸国に対しては同盟を締結し、対立する国家を中立化させる方針を採った。1287年に北方のラーンナー王朝のマンラーイ王やパヤオ王国のガムムアン王と同盟を結んで北方の安全を固め、クメール王朝からの攻撃、パガン王朝に侵入した元朝からの攻撃に備えた。また、かつてスコータイの軍人だったワーレルー(マガドゥー)がペグー王朝を建国すると、ラームカムヘーンはワーレルーを支援し、ワーレルーの側もスコータイに臣従を誓い、スコータイの西側では安全が保たれた。 ラームカムヘーンの在位中、スコータイ王朝の支配範囲は以下の地域に及んだ。 北:プレー、ナーン、ルアンプラバン 南:カムペーンペット、ナコーンサワン、スパンブリー、ペッブリー、ナコーンシータンマラート 東:ピサヌローク、ロムカオ(英語版)、ヴィエンチャン 西:メーソート、ペグー、テナセリム、マルタバン しかし、これらのスコータイから離れた地域では、王朝の支配権が完全に承認されていたわけではなかった。ナーン、ルアンプラバン、ヴィエンチャン、ナコーンシータンマラートは非タイ人の領主によって統治され、彼らは貢納と兵士の提供と引き換えに、領内での自治を認められていた。 スコータイと外部の小規模なムアン(地方政権)の間には、スコータイへの貢物、労働力と軍事力の提供と引き換えに小ムアンはスコータイから保護を受ける関係が、ラームカムヘーンの指導力と人望のもとに成立していた。ラームカムヘーンはスコータイの支配範囲全てを直接統治していたのではなく、小ムアンの支配者を通しての間接統治も行っていたのである。ムアンの領主のうち、スコータイに忠誠を誓っていたのは一部に過ぎず、中央部から外部に向かうほど王の権威は弱くなっていった。中央から周辺部に向かうほど支配者の権威が弱くなる国家の形態はスコータイ以外の東南アジア諸王国にも見られ、こうした形態の国家は「マンダラ国家」と呼ばれている。 マンダラ国家の特徴の一つに、国王の素質によって支配領域が拡大または縮小することが挙げられる。ラームカムヘーンの没後、スコータイ従属下のムアンは別の強力なムアンを頼って次々と独立していき、スコータイの勢力は縮小していった。
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