朱印船貿易の終末
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 09:12 UTC 版)
1620年代になると、朱印船が東南アジア地域の紛争に巻き込まれる事件が多発した。また、幕府の禁教令を背景にしてキリスト教カトリックの宣教師は、布教の拠点を東南アジアの日本町に移すようになり、朱印船を利用して日本人のキリスト教徒(キリシタン)や司祭を日本に送り出す戦術をとるようになった。 このような観点を踏まえつつ、江戸幕府は、東南アジア地域の紛争の悪影響の回避と、キリスト教の流入の防止の観点から、貿易の管理と統制を強化することを余儀なくされるようになった。 徳川秀忠が没し徳川家光の親政が始まると、幕府は、シナ海・東南アジア方面との中継ぎ貿易の管理と統制の拠点であった長崎の整備を進めていくことになった。1633年以降、長崎奉行は2人の旗本から任命されることとなり、幕府は、奉行が長崎に赴任するときに、奉行の職務を定めた通達(いわゆる「鎖国令」)を出した。 1633年の通達(「第1次鎖国令」)では、奉書船以外の渡航や、東南アジアに5年以上永住している日本人の帰国を禁止した。1635年の通達(「第3次鎖国令」)では、すべての日本人の東南アジア方面への海外渡航と帰国が全面的に禁止され、その結果、朱印船貿易は終末を迎えた。 この措置によって東南アジアで朱印船と競合することが多かったオランダ東インド会社が莫大な利益を得、結局は欧州諸国としては唯一、出島貿易を独占することになる。
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