朱印船交易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:52 UTC 版)
16世紀初めには、日本とベトナムの接触は交易という形をとった。 シャム(タイ)やマレーシアなどとともに、日本の朱印船はベトナムの港を頻繁に出入りした。ベトナムの記録によれば、17世紀初頭、阮潢によってホイアンの港が開かれたとき、既に何百人もの日本の商人がそこを住処としていた。 日本の商人は皆、銀や青銅、銅などをベトナム人が持っていた絹や砂糖、香辛料、ビャクダンなどと交換して持ち帰り、莫大な利益をあげた。商人の流入を調整するため、日本町と呼ばれる日本人のための居留地がホイアンに設けられた。 江戸時代も両国は良好な友好関係を楽しんだ。 将軍徳川家康は阮氏と交友関係を結び、書簡や贈物の交換をした。彼の息子阮福源は、娘の阮福玉華を日本の商人荒木宗太郎に嫁がせた。当時日本の商人はしばしば寄付を行い、良い待遇を受けた。多くの移住者が新たな環境に同化していった。 日本の「海賊船船長(pirate commander)」を捕らえたことから、塘中(Đàng Trong)と呼ばれた領域を支配していた阮潢は1600年、江戸幕府に関係継続を申し出る書簡を送付し、幕府も了承した。その後5年間、家康と毎年通信を交わし、日本側の記録によると、1602年には塘中から1200人が乗船する大型船が長崎に到着している。このとき幕府に贈られた品々には、虎1頭、象1頭、孔雀が含まれていた。1604年、阮潢は幕府からの使者を自らの子とした。その後1620年まで、50隻の朱印船が塘中に送られ、幕府にとって最大の交易国となった。日本からは当時の東南アジアでは希少だった銀、また塘中から日本には絹地が送られた。また、1611年には、シャムに向かっていた朱印船が悪天候のため座礁した際、阮潢は「シャムは混沌としていた。この船を問題に遭わせるわけにはいかないので、ここに留まらせて交易し、誠意をもって応対した」との書簡も幕府に送っている。航海を再開したこの朱印船はさらなる贈物と翌年もこの船の寄港を要請する阮潢からの書簡を受け取っている。 日本が鎖国の時代に入っても、現地の永住者またはオランダの商人を介して交易は続けられた。しかし、1685年、江戸幕府は銀山や銅山の過剰な採掘に気付き、交易の制限が導入された。これらの金属類の重要性の増大により、ほとんどの南アジアと同様、日本とベトナムの交易の勢いは弱まったと言われる。
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