朱印状を巡る島津氏の圧力
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「あや船一件」の記事における「朱印状を巡る島津氏の圧力」の解説
1568年、薩摩半島南部にある加世田の片浦に宮古島の貢納線が漂着した。船には宮古島から首里の王府に納めるはずのはずの年貢や貢物積まれていたが、島津氏が漂着民を保護し、琉球に送還した。これに対し琉球は翌年、僧を派遣して感謝の意を述べた。 1570年3月、島津氏は琉球による漂着民送還の返礼を受けて薩摩弘済寺の僧、雪岑を琉球に送った。雪岑は島津貴久から島津義久への守護職譲渡と、義久の家督相続に伴って琉球渡海朱印状の印章も交代されたことを尚元に伝え、あわせて琉球へ島津氏の朱印状を持参せずに渡航する商船への取り締まり(印判制度の遵守)を要請した。さらに島津氏は能久の代替わりによるあや船派遣を要求した。しかし琉球ではその直後に尚元が急死したことにより島津氏の要求に対応できなかった。 島津氏のこの要求のねらいは、庶流から惣領に登りつめた貴久・義久父子が権力基盤の強化のために琉球のあや船派遣によって対外的にその地位を承認してもらえることを期待したことや、敵対する他の大名を琉球貿易から排除し南九州で自らの優位な立場を固めたかったことなどが挙げられる。
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