昭和18年中盤の行動
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「早波 (駆逐艦)」の記事における「昭和18年中盤の行動」の解説
早波の竣工と同日(7月31日)、藤永田造船所で夕雲型駆逐艦の11番艦藤波(藤波艦長松崎辰治中佐。海兵52期)も竣工した。早波と藤波は、訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官木村進少将・海軍兵学校40期)に編入された。内南洋部隊編入中の第6駆逐隊を除き、第十一水雷戦隊(軽巡洋艦龍田〔旗艦〕、駆逐艦霞〈9月1日附で第9駆逐隊に編入〉、若月〈8月15日附で第61駆逐隊編入〉、涼波〈浦賀船渠建造艦、7月27日編入〉、早波、藤波、響〈8月中旬、内地帰投〉)は日本本土で訓練に従事した。 8月17日、主力部隊(戦艦〈大和、長門、扶桑〉、空母大鷹、巡洋艦〈愛宕、高雄、能代〉、駆逐艦部隊〈涼風、海風、秋雲、夕雲、若月、天津風、初風〉)は呉を出撃、トラックに向かう。第十一水雷戦隊(早波、涼波、藤波、霞)は、主力部隊航路前方の哨戒に従事した。 8月20日、日本海軍は夕雲型駆逐艦3隻(涼波、早波、藤波)により第32駆逐隊を編成する。初代第32駆司令は、白露型駆逐艦夕立初代艦長や陽炎型駆逐艦時津風初代艦長等を歴任した中原義一郎大佐(海軍兵学校48期)(中原大佐は、7月8日まで第24駆逐隊司令)。 8月21日、駆逐艦4隻(響〔旗艦〕、涼波、藤波、早波)は扶桑型戦艦山城(当時、砲術学校練習艦として使用。横須賀在泊)の内海西部回航を護衛することになった。十一水戦は、島風型駆逐艦島風(第二水雷戦隊所属)の訓練に協力しつつ、横須賀に移動した。8月26日、5隻(山城〔第11水雷戦隊旗艦〕、響、涼波、藤波、早波)は横須賀を出発。翌日、瀬戸内海に到着した。その後も、第十一水雷戦隊各艦は訓練を実施した。 9月30日付で、第32駆逐隊は第二水雷戦隊(司令官高間完少将・海軍兵学校41期)に編入される。引き続き第十一水雷戦隊の指揮を受けた。また10月1日附で第32駆逐隊に夕雲型駆逐艦玉波(藤永田造船所建造。玉波駆逐艦長青木久治中佐、海兵50期)が編入され、同隊は夕雲型4隻(涼波、藤波、早波、玉波)を揃えた。ただし玉波は空母隼鷹等を護衛しており、32駆本隊とは別行動である。 9月下旬、連合艦隊は戦艦山城、航空戦艦伊勢および第十一水雷戦隊により丁三号輸送部隊を編成した。これは、日本陸軍甲支隊(支隊長は山中萬次郎大佐、歩兵第107聯隊長)の一部をカロリン諸島のポナペ島へ輸送する任務である。甲支隊の輸送は二回にわけて行われることになり、丁三号輸送部隊は第二次輸送であった。 10月15日、丁三号輸送部隊(山城〔第十一水雷戦隊旗艦〕、伊勢、龍田、第32駆逐隊〈早波、涼波、藤波〉)は、佐伯および豊後水道を出撃する。10月20日、トラック諸島に到着した。戦艦搭載の物件を、各艦と輸送船4隻に移載する。第十一水雷戦隊(龍田〔旗艦〕、早波、涼波、藤波)は三回次にわたり、ポナペ輸送(ポンペイ島)を実施した。10月28日、丁三号輸送部隊は解散した。同日附で第32駆逐隊は第二水雷戦隊に復帰する。遊撃部隊警戒隊所属。第十一水雷戦隊(龍田、山城、伊勢)は空母隼鷹や雲鷹等と共に内地へ戻っていった。
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