昭和18年前半の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 17:16 UTC 版)
「海風 (白露型駆逐艦)」の記事における「昭和18年前半の戦い」の解説
海風は1943年(昭和18年)1月6日に横須賀へ到着、9日に佐世保へ回航され修理に従事した。1月23日、小柳少将は退隊(第十戦隊司令官へ転任)、伊崎俊二少将(海兵42期)が新たな第二水雷戦隊司令官となる。また二水戦から「五十鈴」が外れ、二水戦旗艦は同隊に復帰した「神通」に変更された。 2月13日、海風駆逐艦長は杉谷中佐から三舩俊郎中佐に交代する。(杉谷中佐は2月23日より陽炎型駆逐艦3番艦黒潮駆逐艦長)。2月下旬、本艦の修理は完了、同時期に24駆僚艦「涼風」は佐世保に帰投して修理に従事した。「江風」はケ号作戦(ガダルカナル島撤退作戦)後に輸送船と衝突し、ラバウルで修理に従事していた。稼働艦は「海風」のみとなっており、このため第24駆逐隊司令中原義一郎大佐は2月24日附で同隊司令駆逐艦を「涼風」から「海風」に変更した。2月28日、「海風」は夕雲型駆逐艦「清波」(25日附で二水戦・第31駆逐隊編入)と共に輸送船2隻を護衛して横須賀を出発、また駆逐艦2隻(大波、萩風)も空母「冲鷹」を護衛して同日横須賀を出発した。3月6日、「江風」がラバウルからトラック泊地に到着する。3月8日、盤谷丸船団(海風、清波、盤谷丸、西貢丸)もトラック泊地に到着。21日には「江風」が香取型練習巡洋艦1番艦「香取」を護衛して内地へ向かった。「海風」は23日から24日にかけて油槽船「日栄丸」の護衛にあたった。26日には2隻(神通、海風)だけでトラック環礁内での訓練を行った。 24駆姉妹艦(江風、涼風)が内地で修理する一方、4月の大部分を訓練・トラック泊地周辺での船団護衛・輸送作戦に従事して過ごす。4月11日から2日間、第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)と共に対潜掃蕩作戦に従事。「海風」は、第61駆逐隊司令大江覧治大佐指揮下の第一掃蕩隊(涼月、海風、夕暮)に区分されていた。 4月24日、駆逐艦4隻(海風、親潮、黒潮、陽炎)は南東方面部隊(外南洋部隊)に編入された。ニュージョージア諸島(コロンバンガラ島)への輸送作戦に従事することになった。3月3日には同方面輸送作戦中の駆逐艦2隻(村雨、峯雲)が米艦隊のレーダー射撃を受けて一方的に撃沈されており(ビラ・スタンモーア夜戦)、危険な任務であった。4月25日、「海風」は陽炎型17番艦「萩風」と共に輸送船2隻を護衛してトラック泊地を出発した。28日ラバウル着。先行した第15駆逐隊はソロモン諸島のニュージョージア島ムンダへ出発し、遅れて2隻(萩風、海風)もラバウルを出発。ショートランド諸島(ショートランド泊地)に進出した。ソロモン諸島に対する第15駆逐隊と第4駆逐隊(萩風、海風)の第一回・第二回輸送は無事に成功した。 5月7日、第五次コロンバンガラ輸送のため第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)はブカ島を出撃し、2隻(萩風、海風)乗組員は帽子を振って見送ったという。翌5月8日、第15駆逐隊はアメリカ軍が敷設した機雷と、続く空襲ののち3隻とも沈没(黒潮は触雷して轟沈、親潮と陽炎は触雷して航行不能となり、空襲での直接被害は軽微であったものの後に沈没した。)。192名が戦死。輸送任務を終え帰投中だった2隻(萩風、海風)は、当時まだ沈んでいなかった2隻(親潮、陽炎)救援のために反転した。触雷を覚悟して沈没現場を捜索したが、舟艇でやってきた陽炎士官より3隻の沈没と生存者陸上収容を知らされ、ラバウルに帰投した。黒潮駆逐艦長杉谷永秀中佐(2月まで海風駆逐艦長)も生還している。 5月10日、「海風」は外南洋部隊から前進部隊に復帰し、ラバウルからトラック泊地に向かう。第八艦隊司令長官鮫島具重中将は、指揮下を離れる本艦および乗組員の労をねぎらった。トラック泊地に帰投した5月12日、連合軍はアリューシャン列島のアッツ島に上陸を敢行、アッツ島の戦いが始まった。連合艦隊は主戦力を東京湾に集結し北方作戦に備えることを決定。前連合艦隊長官山本五十六大将の遺骨(4月18日海軍甲事件で戦死)内地帰還を兼ねて、大和型戦艦2番艦「武蔵」(古賀峯一連合艦隊長官座乗)がトラック泊地より内地へ帰ることになる。5月17日、駆逐艦5隻(第24駆逐隊《海風》、第27駆逐隊《時雨、有明》、第61駆逐隊《初月、涼月》)は戦艦3隻(武蔵、金剛、榛名)、空母飛鷹、重巡2隻(利根、筑摩)を護衛してトラック泊地を出発。5月22日、横須賀帰着(武蔵のみ木更津冲入泊)。山本元帥の戦死は21日に公表され、通夜および告別式は23日武蔵艦上で行われた。 5月24日、駆逐艦2隻(海風、潮)と測量艦筑紫は大型艦3隻(冲鷹、雲鷹、鹿島)を護衛して横須賀を出発。29日トラック到着。トラック泊地近海で油槽船「玄洋丸」の護衛に従事する。6月から7月にかけても輸送船や空母の護衛任務に従事した。7月8日、第24駆逐隊司令は中原大佐から久保田智大佐(海兵46期)に交代した(中原は8月20日より、夕雲型駆逐艦3隻《涼波、藤波、早波》で編成された第32駆逐隊司令)。 7月12日、コロンバンガラ島沖海戦で第二水雷戦隊旗艦神通が沈没、神通沈没時に伊崎俊二少将(第二水雷戦隊司令官)と二水戦司令部将兵も全員戦死した。そこで帝国海軍は第四水雷戦隊を解隊して同隊司令官高間完少将および同水戦司令部を横滑りさせ、あらたな第二水雷戦隊を編成した。7月20日時点での第二水雷戦隊(司令官高間完少将)は、旗艦長良、第31駆逐隊(大波、清波、巻波、長波)、第27駆逐隊(時雨、有明、夕暮、白露)、第24駆逐隊(涼風、江風、海風)、附属艦(玉波、島風、五月雨、神通〔書類上在籍〕)という戦力であった。 「海風」は7月19日にトラック泊地を出発、トラック泊地より横須賀まで空母を護衛したあと佐世保に回航され25日より入渠修理をおこなった。レーダーの装備も行っている。だが8月6日のベラ湾夜戦で陽炎型2隻(萩風、嵐)と共に姉妹艦「江風」が沈没。第24駆逐隊は2隻編制(海風、涼風)となった。
※この「昭和18年前半の戦い」の解説は、「海風 (白露型駆逐艦)」の解説の一部です。
「昭和18年前半の戦い」を含む「海風 (白露型駆逐艦)」の記事については、「海風 (白露型駆逐艦)」の概要を参照ください。
- 昭和18年前半の戦いのページへのリンク