ビラ・スタンモーア夜戦
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ビラ・スタンモーア夜戦(ビラ・スタンモーアやせん、英語: Battle of Vila-Stanmore)は、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)3月5日にソロモン群島ニュージョージア諸島で生起した海戦のこと[1]。ブラケット海峡の戦い(Battle of Blackett Strait)とも呼ばれる。
注釈
- ^ ニュージョージア島とイサベル島周辺を中部ソロモン諸島と呼称する。ブーゲンビル島、ショートランド島、ブカ島を北部ソロモン諸島と称する。『戦史叢書39巻、大本營海軍部・聯合艦隊〈4〉』73頁の注釈より。
- ^ 後日、沖縄方面根拠地隊司令官。沖縄戦で戦死。
- ^ 候補生らが「初めて入港した港湾では必ず行われる実習項目となっており、ガンルーム士官が短艇指揮として陸上との連絡、上陸員の送迎を行う上に必要な実施教育だった」(#村雨の最期p.14)
- ^ 「漸次北上の地歩を固めつつあった時であり、弾薬の補給も意の如くならないので射撃の制限を加えたのかもしれない。しかしむしろ敵は無益な交戦を避けて、極力当面の作戦目的たる基地の推進に重点を置いたと考えるのが正しいであろう」という見方が存在する(#村雨の最期pp.106-107)。この時期、南太平洋部隊は艦船と航空機が不足気味ではあったが(#ポッターpp.344-345)、弾薬に関する制限が実際にあったかどうかについては不明である。
- ^ 「椰子林を管理していた人々の家らしい」(#村雨の最期p.47)。目立った建物だったらしく、「潮流に遮られ、泳げども泳げども近づかない赤い屋根の魔法にとりつかれて、遂に力盡き果てコロンバンガラ島の海に村雨を追って沈んでしまった」者もいた(#村雨の最期p.58)。
出典
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ビラ・スタンモーア夜戦
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「村雨 (白露型駆逐艦)」の記事における「ビラ・スタンモーア夜戦」の解説
1943年(昭和18年)1月24日、第2駆逐隊僚艦春雨が輸送任務中にアメリカの潜水艦ワフー(USS Wahoo, SS-238) の雷撃で大破、10ヶ月近くの戦線離脱を余儀なくされた。2月3日、村雨は浦賀船渠を出て横須賀に回航。2月7日、第四水雷戦隊司令官高間完少将(旗艦村雨)は駆逐艦3隻(村雨、浦波、朝潮)および空母冲鷹を指揮して横須賀を出港。2月12日、4隻はトラック到着。到着と共に第四水雷戦隊旗艦は長良に変更された。2月23日、救援艦3隻(天津風、浦風、雄島)と共に春雨(曳航中の船体前部切断喪失)がトラック泊地に到着。工作艦明石に横付しての修理がはじまった。 2月上旬、日本海軍はケ号作戦にてガダルカナル島から撤退する。その後、日本海軍はニュージョージア島を防衛拠点とすべく、海軍第8聯合特別陸戦隊4000名と設営隊3600名、陸軍の南東支隊(佐々木登少将。第38師団の歩兵第229聯隊など6000名)をニュージョージア島に派遣し、同島南西部のムンダに飛行場を築いた。だがアメリカ軍の空襲で輸送船3隻のうち1隻が沈没、1隻が炎上し、すぐに弾薬と糧食の不足という事態に陥ってしまう。そこでトラック泊地にいた第2駆逐隊司令艦村雨と第9駆逐隊峯雲に緊急輸送命令が出され、2月27日附で南東方面部隊に編入、2月28日トラックを出撃してラバウルに向かった。3月2日、2隻(村雨、峯雲)はラバウルに到着した。3日、「村雨」はコロンバンガラへ向け出撃。ラエへの輸送作戦の陽動も兼ねていたが輸送船団全滅のため引き帰し、同日11時30分ラバウル入港の際に座礁。離礁し入港できたのは翌日の夜明け間近であった。 「村雨」、「峯雲」は各艦ドラム缶200本、弾薬糧食を上甲板に満載すると、4日夕刻ラバウルを出撃した。ビスマルク海海戦(ダンピール海峡の悲劇)の生還者を収容した駆逐艦部隊(雪風、朝雲、敷波、浦波、初雪)等がラバウルに帰着した日でもある。 駆逐艦2隻(村雨、峯雲)はブーゲンビル島ショートランド泊地に立ち寄ったのち、3月5日午後9時30分から10時30分までコロンバンガラ島クラ湾での補給を実施。帰途は西側の水道をつかわず北上してショートランド泊地へむかう航路をとった。ところが2隻の行動はアメリカ軍に通報されており、PBYカタリナ飛行艇"ブラックキャット"が偵察と哨戒を実施、アメリカの潜水艦グレイバックとグランパスがクラ湾出口に配備された。当時の天候は薄曇り、月齢28、視界15km程、風もない静かな夜であったという。 詳細は「ビラ・スタンモーア夜戦」を参照 同時刻、アーロン・S・メリル少将指揮する第68任務部隊のクリーブランド級軽巡洋艦3隻(モントピリア、クリーブランド、デンバー)、駆逐艦3隻(ウォーラー、コンウェイ、コニー)がクラ湾に進入していた。第68任務部隊はニュージョージア島ムンダ飛行場に対する艦砲射撃を実施すべく出撃したのだが、日本軍巡洋艦もしくは駆逐艦2隻がショートランドを出撃したとの報告を情報部から受け、さらに夜間哨戒機の偵察報告も受信し、日本艦隊を迎撃すべく準備を整えていたのである。速力20ノットで航行する米艦隊は22時57分(日本時間と約1時間ずれている)にレーダーで目標を探知、23時01分に射撃を開始した。レーダーのない2隻(村雨、峯雲)は米艦隊の存在に全く気付いておらず、砲撃を受けた当初は夜間空襲と判断していた。種子島洋二駆逐艦長は、当初『対空戦闘』を下令。つづいて敵艦隊と悟り「右砲戦、右80度、反航する敵艦に射撃開始」を命令したものの、まず峯雲が被弾炎上し、続いて村雨も主砲や機関部を破壊され航行不能に陥った。まもなく村雨は艦尾から沈没した。コロンバンガラ島の日本軍守備隊は、北東方面での海戦で1隻が大爆発するのを目撃している。アメリカ軍によれば、峯雲は駆逐艦ウォーラーの魚雷で轟沈、村雨は巡洋艦3隻の砲撃で沈没。日本側の記録では、峯雲の沈没時刻は23時15分、村雨の沈没時刻は23時30分。 村雨の乗員245名中、生存者は129名、戦死者は116名であった。峯雲の乗員255名中、生存者は45名、戦死者は210名であった。沈没時多数の乗組員が生存していたのだが、大発動艇による救助が遅れたことで溺死者が増えてしまったという。同日のコロンバンガラ島守備隊はメリル隊の艦砲射撃を受けて甚大な被害を出しており、救助に向かうまでに時間を要したのが一因であった。 3月8日、駆逐艦部隊(朝雲、雪風、長月、浦波、敷波)が鼠輸送のためコロンバンガラ島に到着、13日にも輸送部隊(朝雲、雪風、長月)が同島に到着する。第2駆逐隊司令や種子島艦長以下生存者はこれらの駆逐艦に分乗しラバウルへ向かった。橘司令は駆逐艦五月雨に移乗し、村雨、峯雲の生存者は横須賀へ送還された。この時、第2駆逐隊司令は村雨、峯雲の沈没原因について『敵巡洋艦3隻の砲撃と、B-17十数機(触接していたのはカタリナ飛行艇夜間哨戒仕様)の空襲』と報告し、レーダーに厳重警戒を行うように警告した。峯雲、村雨の沈没、白露、春雨の大破長期修理により、健在の第四水雷戦隊は6隻(長良、朝雲、五月雨、時雨、有明、夕暮)にまで消耗した。 4月1日、ビスマルク海海戦で沈没した時津風達と共に村雨の除籍が決定した。第2駆逐隊、白露型、帝国駆逐艦籍のそれぞれから削除された。なお、村雨の喪失により第2駆逐隊の残存艦は五月雨と春雨(大破長期修理中)となっており、7月1日附で解隊。のちに、2隻は白露型2隻編制となっていた第27駆逐隊(時雨、白露)に編入された。 神奈川県横須賀市の鴨居に駆逐艦「村雨」の碑が建っている。※同地にある鴨居八幡神社の飛地境内として登記
※この「ビラ・スタンモーア夜戦」の解説は、「村雨 (白露型駆逐艦)」の解説の一部です。
「ビラ・スタンモーア夜戦」を含む「村雨 (白露型駆逐艦)」の記事については、「村雨 (白露型駆逐艦)」の概要を参照ください。
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