ビラ (ソロモン諸島)
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ビラ (Vila) は、ソロモン諸島のコロンバンガラ島の南端に位置する地区で、元々はビラ・スタンモーア (Vila Stanmore) と総称されたココナッツのプランテーションがあった場所である。ビラ川 (the Vila River) の河口を挟んで西側にスタンモーア・プランテーション、東側にビラ・プランテーションが広がっていた[1]。
第二次世界大戦中、日本軍は当地に飛行場を建設し、ラバウルからガダルカナル島に向かう飛行機の経由地としており、これに対してアメリカ軍は、1943年1月24日以降、この飛行場を使えないようにしようと数次にわたって砲撃や爆撃を敢行した。しかし、飛行場は、最終的に日本軍が「セ号作戦」によりコロンバンガラ島から撤退した1943年9月から10月はじめにかけての頃まで、使用され続けていた。
飛行場は、今日も存続しており、歴史に関心を持った観光客たちが時折訪れている。日本からの慰霊訪問地のひとつでもある[2]。
脚注
- ^ Solomon Islands Campaign: IX, bombardments of Munda and Vila-Stanmore. Report No. 13-d(9), USSBS Index Section 6. Office of Naval Intelligence. (1944). p. 19 - 脚注22:国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ “洋上慰霊 戦没者遺児の皆さんへ” (PDF). 日本遺族会 / 沖縄県嘉手納町. 2021年2月17日閲覧。
関連項目
外部リンク
ビラ・スタンモーア
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「アーロン・S・メリル」の記事における「ビラ・スタンモーア」の解説
「ビラ・スタンモーア夜戦」も参照 1943年1月25日、少将に昇進したメリルはウィリアム・ハルゼー大将(アナポリス1904年組)の南太平洋部隊指揮下の第68任務部隊(第32任務部隊第12巡洋艦戦隊)司令官となって、軽巡洋艦「モントピリア」に将旗を掲げる。「モントピリア」の元乗員ジェームズ・J・フェーイーは、着任したメリルの第一印象を「元気いっぱいの人だった。四〇代だろうけれど、なかなかハンサムでもあった。」としている。 第68任務部隊司令官としての最初の任務は、インディアナ艦長時代に引き続いて最末期となったガダルカナルの戦いの支援に従事することであった。「モントピリア」に着任してわずか2日後の1月27日には、ロバート・C・ギッフェン少将(アナポリス1907年組)率いる第18任務部隊を支援するためにエファテ島を出撃。1月30日のレンネル島沖海戦ではギッフェンの第18任務部隊が檜貝襄治少佐率いる第七〇一海軍航空隊の攻撃を受けて重巡洋艦「シカゴ」が沈没し、支援にあたっていた「モントピリア」にも魚雷が命中したが、不発に終わった。 ところで、ガダルカナル島の戦いも終末期に差し掛かった1942年11月末、アメリカ軍はムンダに日本軍が新たな飛行場を建設中であることを知る。ムンダとガダルカナル島の距離は175マイル(約280 km)で、ガダルカナル島再奪回やアメリカ軍の進撃を妨害するには好適地であった。零戦のガダルカナル島上空での行動時間は大幅に伸び、爆撃機も従来以上の量の爆弾を搭載してガダルカナル島を爆撃する事も可能となる。実際には、日本軍がムンダでの飛行場建設に乗り出したのは12月1日からで、第一期工事は二週間ほどで終了した。また、コロンバンガラ島でも1943年1月上旬から飛行場建設を開始する予定だった。当然、アメリカ軍からしてみればムンダの基地が本格稼動し、コロンバンガラ島の飛行場も使用可能となった暁には相当な脅威となる厄介な存在と判断されていた。ハルゼーは1943年に入り、水上部隊にムンダとコロンバンガラ島への艦砲射撃を繰り返し行わせ、同時に爆撃や航空機による機雷投下も行った。メリルの第68任務部隊は、ウォルデン・L・エインズワース少将(アナポリス1910年組)の第67任務部隊と交替でムンダとコロンバンガラ島への艦砲射撃を夜間に行っていたが、ガダルカナル島をめぐる海戦に登場した臨時編成の任務部隊とは違い、夜戦を得意としていた日本艦隊によりよく対抗できるよう、レーダーに関する知識を学び、常にまとまって訓練と行動を繰り返した結果、均整が取れた部隊となっていた。 3月5日深夜から3月6日未明にかけて行われたビラ・スタンモーア夜戦は、メリルの令名を高めた戦いである。「定期便」のためにコロンバンガラ島近海に向かっていたメリルの第68任務部隊は、コロンバンガラ島への輸送任務を終えて帰途についていた駆逐艦「村雨」と「峯雲」をレーダー射撃による一方的な戦闘により撃沈し、さらにコロンバンガラ島の海岸部にある日本軍の軍事施設と兵舎、滑走路、砲台を目標に16分間に及ぶ艦砲射撃を実施して、目標は徹底的に破壊された。フェーイー曰く、メリルはこの一連の戦闘で「挑戦を楽しんでいるようだった」。メリルは戦闘報告をハルゼーに送ったが、報告は何かの間違いでフランクリン・ルーズベルト大統領や南西太平洋軍司令官ダグラス・マッカーサー陸軍大将にも届けられた。この海戦の意義は、レーダーを活用したアメリカ艦隊が日本艦隊との夜間の水上戦闘において、初めて完勝劇をおさめたことにある。レーダーを使った夜間の水上戦闘としてはこれまでに、1942年10月11日のサボ島沖海戦でノーマン・スコット少将(アナポリス1907年組)がレーダー射撃を行って日本艦隊を追い返し、同年11月30日のルンガ沖夜戦でもカールトン・H・ライト少将(アナポリス1912年組>)がレーダーによって田中頼三少将の第二水雷戦隊を探知して、大局的には戦略的勝利を収めていたが、この2つの海戦では戦法の拙さなどもあってアメリカ海軍側にも少なからぬ損害が出ていた。メリルはビラ・スタンモーア夜戦において初めて、味方に一片の損害を蒙ることなく敵を討ち果たしたのである。 ビラ・スタンモーア夜戦後、メリルの第68任務部隊は第39任務部隊に呼称が代わったが、相変わらずムンダ、ショートランド諸島への艦砲射撃を繰り返した。しかし、不思議なことにメリルの第39任務部隊と日本艦隊との戦いは1943年11月まで起きなかった。一方、エインズワースの任務部隊はクラ湾夜戦とコロンバンガラ島沖海戦で日本艦隊の旗艦を撃沈したものの、自らの任務部隊も軽巡洋艦「ヘレナ」沈没などの大きな損害を蒙り、戦力としては事実上瓦解した。また、中部太平洋方面での作戦が本格化して主だった艦艇が中部太平洋方面に回ったため、この時点でメリルの第39任務部隊は、ソロモン方面で唯一の有力艦隊となった。
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