ビラ・スタンモーアとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ビラ・スタンモーアの意味・解説 

ビラ (ソロモン諸島)

(ビラ・スタンモーア から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/20 07:55 UTC 版)

ビラ (Vila) は、ソロモン諸島コロンバンガラ島の南端に位置する地区で、元々はビラ・スタンモーア (Vila Stanmore) と総称されたココナッツプランテーションがあった場所である。ビラ川 (the Vila River) の河口を挟んで西側にスタンモーア・プランテーション、東側にビラ・プランテーションが広がっていた[1]

第二次世界大戦中、日本軍は当地に飛行場を建設し、ラバウルからガダルカナル島に向かう飛行機の経由地としており、これに対してアメリカ軍は、1943年1月24日以降、この飛行場を使えないようにしようと数次にわたって砲撃や爆撃を敢行した。しかし、飛行場は、最終的に日本軍が「セ号作戦」によりコロンバンガラ島から撤退した1943年9月から10月はじめにかけての頃まで、使用され続けていた。

飛行場は、今日も存続しており、歴史に関心を持った観光客たちが時折訪れている。日本からの慰霊訪問地のひとつでもある[2]

脚注

  1. ^ Solomon Islands Campaign: IX, bombardments of Munda and Vila-Stanmore. Report No. 13-d(9), USSBS Index Section 6. Office of Naval Intelligence. (1944). p. 19  - 脚注22:国立国会図書館デジタルコレクション
  2. ^ 洋上慰霊 戦没者遺児の皆さんへ” (PDF). 日本遺族会 / 沖縄県嘉手納町. 2021年2月17日閲覧。

関連項目

外部リンク

座標: 南緯8度07分30秒 東経157度08分36秒 / 南緯8.1251度 東経157.1432度 / -8.1251; 157.1432


ビラ・スタンモーア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 10:16 UTC 版)

アーロン・S・メリル」の記事における「ビラ・スタンモーア」の解説

ビラ・スタンモーア夜戦」も参照 1943年1月25日少将昇進したメリルウィリアム・ハルゼー大将アナポリス1904年組)の南太平洋部隊指揮下の第68任務部隊(第32任務部隊12巡洋艦戦隊司令官となって軽巡洋艦モントピリア」に将旗掲げる。「モントピリア」の元乗員ジェームズ・J・フェーイーは、着任したメリル第一印象を「元気いっぱいの人だった。四〇代だろうけれど、なかなかハンサムでもあった。」としている。 第68任務部隊司令官として最初の任務は、インディアナ艦長時代引き続いて最末期となったガダルカナルの戦い支援従事することであった。「モントピリア」に着任してわずか2日後1月27日には、ロバート・C・ギッフェン少将アナポリス1907年組)率いる第18任務部隊支援するためにエファテ島出撃1月30日レンネル島沖海戦ではギッフェンの第18任務部隊貝襄治少佐率い第七〇一海軍航空隊攻撃受けて重巡洋艦シカゴ」が沈没し支援にあたっていた「モントピリア」にも魚雷命中したが、不発終わった。 ところで、ガダルカナル島の戦い終末期差し掛かった1942年11月末、アメリカ軍ムンダ日本軍新たな飛行場建設中であることを知る。ムンダガダルカナル島の距離は175マイル(約280 km)で、ガダルカナル島奪回アメリカ軍進撃妨害するには好適であった零戦ガダルカナル島上空での行動時間大幅に伸び爆撃機従来上の量の爆弾搭載してガダルカナル島爆撃する事も可能となる。実際には、日本軍ムンダでの飛行場建設乗り出したのは12月1日からで、第一期工事二週間ほどで終了したまた、コロンバンガラ島でも1943年1月上旬から飛行場建設開始する予定だった。当然、アメリカ軍からしてみればムンダ基地本格稼動し、コロンバンガラ島飛行場使用可能となった暁には相当な脅威となる厄介な存在判断されていた。ハルゼー1943年入り水上部隊ムンダコロンバンガラ島への艦砲射撃繰り返し行わせ、同時に爆撃航空機による機雷投下行ったメリルの第68任務部隊は、ウォルデン・L・エインズワース少将アナポリス1910年組)の第67任務部隊交替ムンダコロンバンガラ島への艦砲射撃夜間行っていたが、ガダルカナル島をめぐる海戦登場した臨時編成任務部隊とは違い夜戦を得意としていた日本艦隊によりよく対抗できるよう、レーダーに関する知識学び、常にまとまって訓練行動繰り返した結果均整取れた部隊となっていた。 3月5日深夜から3月6日未明にかけて行われたビラ・スタンモーア夜戦は、メリル令名高めた戦いである。「定期便」のためにコロンバンガラ島近海向かっていたメリルの第68任務部隊は、コロンバンガラ島への輸送任務終えて帰途についていた駆逐艦村雨」と「峯雲」をレーダー射撃による一方的な戦闘により撃沈し、さらにコロンバンガラ島海岸部ある日本軍軍事施設兵舎滑走路砲台目標16分間に及ぶ艦砲射撃実施して目標徹底的に破壊された。フェーイー曰くメリルはこの一連の戦闘で「挑戦楽しんでいるようだった」。メリル戦闘報告ハルゼー送ったが、報告は何かの間違いフランクリン・ルーズベルト大統領南西太平洋軍司令官ダグラス・マッカーサー陸軍大将にも届けられた。この海戦の意義は、レーダー活用したアメリカ艦隊日本艦隊との夜間の水上戦闘において、初め完勝劇をおさめたことにある。レーダー使った夜間の水上戦闘としてはこれまでに、1942年10月11日サボ島沖海戦ノーマン・スコット少将アナポリス1907年組)がレーダー射撃行って日本艦隊追い返し同年11月30日ルンガ沖夜戦でもカールトン・H・ライト少将アナポリス1912年組>)がレーダーによって田中頼三少将第二水雷戦隊探知して大局的に戦略的勝利を収めていたが、この2つ海戦では戦法拙さなどもあってアメリカ海軍側にも少なからぬ損害出ていた。メリルビラ・スタンモーア夜戦において初めて、味方一片損害蒙ることなく敵を討ち果たしたのであるビラ・スタンモーア夜戦後、メリルの第68任務部隊は第39任務部隊呼称が代わったが、相変わらずムンダショートランド諸島への艦砲射撃繰り返した。しかし、不思議なことにメリルの第39任務部隊日本艦隊との戦い1943年11月まで起きなかった。一方エインズワース任務部隊クラ湾夜戦コロンバンガラ島沖海戦日本艦隊旗艦撃沈したものの、自らの任務部隊軽巡洋艦ヘレナ沈没などの大きな損害を蒙り、戦力としては事実上瓦解したまた、中部太平洋方面での作戦本格化して主だった艦艇中部太平洋方面回ったため、この時点メリルの第39任務部隊は、ソロモン方面唯一の有力艦隊となった

※この「ビラ・スタンモーア」の解説は、「アーロン・S・メリル」の解説の一部です。
「ビラ・スタンモーア」を含む「アーロン・S・メリル」の記事については、「アーロン・S・メリル」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ビラ・スタンモーア」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ビラ・スタンモーア」の関連用語

ビラ・スタンモーアのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ビラ・スタンモーアのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのビラ (ソロモン諸島) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのアーロン・S・メリル (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS