ビラードと1893年恐慌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/13 10:25 UTC 版)
「ノーザン・パシフィック鉄道」の記事における「ビラードと1893年恐慌」の解説
こうした成功にも関わらず、他の多くのアメリカの鉄道と同じく、NPはかろうじて生き延びている状態であった。1887年から1893年まで、ビラードは取締役に復帰していた。社長就任を要請されていたが、彼は拒否し、ビラードのカンザス・パシフィック鉄道時代の同僚である、トーマス・フレッチャー・オークス(Thomas Fletcher Oakes)が1888年9月20日に社長となった。 ビラード体制下で、NPは支線の拡大に力を注いだ。加えてジェームズ・ジェローム・ヒル(James Jerome Hill)率いるグレート・ノーザン鉄道(GN)との最初の競合関係に入った。GNは、NPがかつてそうだったように、双子都市ことミネソタ州ミネアポリス・セントポール都市圏からピュージェット湾を目指して西進した鉄道で、1893年には完成予定であった。 このGNとの競争のために、NPは採算にのるかどうかを問わず、勢力拡大のためだけに支線を建設したものもある。そうした経営判断ミス、少ない輸送量、そして1893年恐慌(Panic of 1893)が、NP、そしてビラードの財産の終焉の予兆を奏でていた。1893年10月20日、NPは二度目の倒産をする。オークスは管財人となり、ニューヨーク証券取引所の社長であったブライトン・C・イブス(Brayton C. Ives)が社長に就任した。
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