連合軍の動向
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ソロモン諸島の戦いのうち、1942年(昭和17年)11月30日から12月1日にかけての深夜に起こったルンガ沖夜戦で、カールトン・H・ライト少将(アナポリス1912年組)率いる第67任務部隊(英語版)は、外南洋部隊増援部隊指揮官田中頼三少将(第二水雷戦隊司令官)率いる日本海軍の水雷戦隊によって、重巡洋艦群に手痛い損害を受けた。南太平洋軍司令官ウィリアム・ハルゼー大将は第67任務部隊の立て直しを図り、12月10日付でヴォールデン・L・エインスワースをライトの後任として第67任務部隊司令官に据えた。軽巡洋艦を中心に再建された第67任務部隊は、エインズワースに率いられガダルカナル島から日本軍を追い出す最後の戦いの支援に任じた。特にニュージョージア島ムンダに新たに建設されていた日本軍飛行場に対する艦砲射撃を行った戦闘行動は「エインズワース・エクスプレス」とも呼称され、歴史家サミュエル・E・モリソンに「基地攻撃に関する長期間にわたるお手本」と評された。1943年(昭和18年)3月に入り合衆国艦隊の再編成が行われて南太平洋部隊は「第3艦隊」と呼称されるようになり、水陸両用戦部隊以外は「第36任務部隊」と改められた。エインズワース少将率いる第36任務部隊は「ザ・スロット」と呼ばれたニュージョージア海峡にてアーロン・S・メリル少将率いる第68任務部隊と交互に行動することになった。3月5日深夜から3月6日未明にかけて行われたビラ・スタンモーア夜戦では、メリル少将の第68任務部隊がコロンバンガラ島への輸送任務を終えて帰途についていた日本海軍の駆逐艦2隻(村雨、峯雲)をレーダー射撃による一方的な戦闘により撃沈した。 詳細は「ビラ・スタンモーア夜戦」を参照 5月8日には、コロンバンガラ島への輸送任務を終えて帰途についていた第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)が、機雷と空襲により全滅する椿事も起きた。 一方でソロモン方面にいた主な有力なアメリカ艦隊は上記の二つのみであり、前年のガダルカナルを巡る戦闘で多数の航空母艦を撃沈もしくは大破させられたため1943年5月から10月までソロモン方面で行動可能なアメリカ海軍の正規空母はサラトガ1隻程度しかおらず、航空戦力はもっぱら基地航空隊に頼っていた。このため6月から7月に限っては急遽イギリス海軍から借り受けた空母ヴィクトリアスがニュージョージア島の戦いを支援した。またニュージョージア島侵攻は5月中句に予定されていたが、ヨーロッパ戦線でのイタリア本土上陸作戦の準備と大西洋の船団護衛に多量の航空機と艦艇が回されたため、ニュージョージア島侵攻は6月初に、ついで6月30日に延期になった。 6月30日、アメリカ軍はニュージョージア島ムンダ飛行場対岸のレンドバ島に上陸し、同島を占領した。 「ニュージョージア島の戦い」も参照 レンドバ島を占領する意味は、ここに重砲を据えてムンダ飛行場へ直接砲撃が可能になるということであり、いわば「不沈砲台」とするものであった。しかし、日本軍がレンドバ島に配備していた守備隊は約140名にすぎず、リッチモンド・K・ターナー少将率いる水陸両用部隊に一蹴されることになった。引き続きレンドバ島の重砲の援護下、ニュージョージア島攻略部隊は続々と舟艇機動によってムンダ東方海岸に殺到する。ところが、攻略部隊はジャングル内で日本軍側の縦深防御に手を焼いて進撃は進まなかった。ウィリアム・ハルゼー大将の南太平洋部隊(第3艦隊)内部では、この戦いをちょうど80年前の南北戦争時のビックスバーグの包囲戦になぞらえ、包囲戦が終結した7月4日には同じように勝利を手にする事ができるだろうと考えていたが、この目論見も外れる形となった。
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