連合軍の到達
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 08:20 UTC 版)
「マニラの戦い (1945年)」の記事における「連合軍の到達」の解説
1945年1月に連合軍はルソン島に上陸し、2月3日、アメリカ陸軍第14軍団(第1騎兵師団と第37歩兵師団)がマニラ地区へ突入し、その日のうちに連合国民間人の収容所となっていた聖トマス大学を解放した。市街地に立てこもった日本軍に対し、アメリカ軍は徹底した砲爆撃を加えた。これにより、市街地は廃墟と化した。アメリカ軍の支援を受けたフィリピン人ゲリラ約3,000人も、戦闘に参加した。 マニラ港内に残っていたわずかな日本側艦船は脱出を試み、2月7日、駆潜特務艇などの小艦艇7隻が成功した。しかし砲艦唐津は2月5日に港内で自沈処分され、そのほか小型艇1隻も自沈した。 2月6日から、サンフアンで本格的な戦闘が始まったが、守備していた日本軍陸戦隊1個大隊はわずか3日で潰走した。陣頭指揮を執っていた大隊長の西山勘六大尉ら幹部が死傷すると、部隊全体の人的損害は比較的軽微であるにもかかわらず統制が失われてしまった。 マニラ南西のナスグブ方面にもアメリカ陸軍第11空挺師団が上陸及びパラシュート降下し、途中で日本側の藤兵団隷下の歩兵第31連隊第3大隊を撃破しながらマニラへ侵攻した。 2月6日にマニラ海軍防衛隊は以下の報告を打電した。 敵「マニラ」に侵入するや 市民は双手を挙げて之を歓迎万事我が戦闘行動を阻害しつつ 市民は約70万と認めらるるも 3日より5日に至る「パシツク」河以北戦線に於いて 奇襲攻撃を不可能ならしめたるは「ゲリラ」化せる一般市民にして 攻撃前に米軍に内通せられ 肉攻隊員にして市民の射撃を受け 米軍宛所在を表示せられ 目的を達せざりしもの枚挙に遑あらず 米軍侵入の地帯は米国旗を掲揚しある等 敵国人として差当り処置を要するものあり 「マニラ」市は地盤軟弱にして 高層建物も地下室を有するもの殆んど無く 砲爆撃に依る振倒大なり 現有焼夷弾数発により 内張、床、精食等に点火消失すること予想以上なり 就中弾薬の誘爆 特に今回の如く弾庫、重量施設に爆破準備をなしある場合は戦闘実施に相当の困難を感じ 市街戦実施上考慮を要するものと認む — 戦史叢書 『南西方面海軍作戦』 p.507
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