連合軍の上陸計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 18:00 UTC 版)
1943年1月のカサブランカ会談後、米軍は中部太平洋の攻略を決定、その準備として7月にはエリス諸島に爆撃機用の飛行場を、9月初めにベーカー島に戦闘機用の飛行場の建設に取り掛かった。この頃真珠湾には新型の正規空母4隻(エセックス、ヨークタウン、レキシントン、バンカーヒル)、軽空母5隻(インディペンデンス、プリンストン、ベロー・ウッド、カウペンス、モンテレー)などが到着、サラトガなどと合同し、強力な機動部隊を複数編成していた。これらの機動部隊は9月1日のエセックス、ヨークタウン、インディペンデンスによる南鳥島の空襲を手始めとして、同月19日にはレキシントン、プリンストン、ベロー・ウッドがギルバート諸島を空襲した。これはエリス諸島に対する空襲の脅威を取り除くことが主な目的であったが、同時に新たに編成された機動部隊の乗組員と搭乗員に実戦の経験を積ませることもその目的の一つであった。これらの目的は首尾よく果たされたが、それに加え攻略が予定されているマキン、タラワ両島の詳細な写真撮影に成功したことも大きな成果であった。その後10月には空母エセックス、ヨークタウン、レキシントン、インディペンデンス、ベロー・ウッド、カウペンスの計6隻からなる第14任務部隊がウェーク島に空襲を加え、中部太平洋の日本軍の航空戦力はさらに打撃を受けた。その間、連合艦隊は9月と10月に二度機動部隊を出撃させたが、これを補足することができなかった。 1943年8月、連合軍統合参謀本部は太平洋方面の各作戦を発表、そこで、マッカーサーとハルゼーに、ニューギニアとソロモンからラバウルに対する二方向進撃の続行を指示、さらにラバウルについては「ラバウルは占領するよりもむしろ無力化するべきである」とされた。ラバウル周辺の拠点を奪取し、ここからラバウルに航空機による連続攻撃を加えればラバウルを孤立化できると考えたのである。そこで当初ハルゼーはブーゲンビル島のブインを攻略するための準備として、その付近のショートランド諸島とチョイセル島の占領を考えていたが、中部ソロモンを巡る攻防戦の教訓から、いたずらに時間と兵力を消耗してブインを攻略するよりもむしろ、このブーゲンビル島南端に位置する日本軍拠点を迂回することを考えたのである。さらにこれらの地域を迂回すると同時に、ラバウル攻撃のためブーゲンビル島に航空基地の建設が可能な要地を絞込み、北東部沿岸のキエタと、南西部沿岸のタロキナが選ばれた。前者は良好な港湾を持ち、小型の飛行場も存在していたが、キエタ攻略のためにはチョイセル島を確保しなければならずまた、この両島を攻略するにはいずれも連合軍拠点のベララベラ島、ガダルカナル島からソロモン諸島外海を遠く回り込まねば成らなかった。後者であるタロキナは上陸のための接岸ができる場所もわずかであり、しかもまもなく来るモンスーンシーズンの影響で風雨にさらされる地域でもあった。しかしながらタロキナは上陸船団の発進地点から近く、ソロモン諸島の内海から進行できるメリットがあり、またこの地域は日本軍の守備も手薄であり、いったん確保されたら反撃の準備を整えるまでには数週間かかるほど周囲とは隔絶された地形であった。また、タロキナ攻略準備のための確保すべき地域であったトレジャリー諸島(モノ島およびスターリング島などから構成される)はチョイセル島よりも確保は容易であった。さらにその後の現地調査の結果、タロキナの沿岸部は沼地であったが、その奥に飛行場に適した地形があることもわかった。この結果ハルゼーは9月22日、トレジャリー諸島の占領を決め、10月27日の夜明け、ニュージーランド軍の一個旅団(6300名)が駆逐艦と航空機による支援の元、トレジャリー諸島のブランチ港両岸より上陸を開始したのである。
※この「連合軍の上陸計画」の解説は、「ろ号作戦」の解説の一部です。
「連合軍の上陸計画」を含む「ろ号作戦」の記事については、「ろ号作戦」の概要を参照ください。
- 連合軍の上陸計画のページへのリンク