連合軍のピアチェンツァへの撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/07 17:33 UTC 版)
「ピアチェンツァの戦い」の記事における「連合軍のピアチェンツァへの撤退」の解説
アスティ駐留軍が降伏したことでフランス軍に大きな問題が生じた。フランス軍の戦意が大きく低下した結果、マイユボワ元帥の軍勢は3月末までに1万5千人を脱走、病気または捕虜で失ってしまい、オーストリア軍の集結がもたらした新しい危険にどう対処すればいいのか決められなかった。マイユボワもフェリペ王子もロンバルディアからの撤退がマドリードの宮廷を激怒させるとして避けたかった。しかし、彼らにとって不幸なことに、オーストリア軍がその決定を下させた。オーストリア軍は巧妙な行軍でフェリペ王子の軍勢をミラノからパヴィーアから撤退させ、4月にはパルマ、レッジョ、グアスタッラが相次いで陥落した。イタリア各地に散らばっている軍を集結させるべく、スペイン軍はマイユボワにフランス軍を西進させて、各地からピアチェンツァへ撤退する連合軍と合流するよう求めた。 しかし、マイユボワ元帥はジェノヴァを通じた連絡線を捨てたくなかったためピアチェンツァへは10個大隊しか送らなかった。スペイン王フェリペ5世と王妃エリザベッタ・ファルネーゼはガージェ伯爵にピアチェンツァに留まるよう命じ、フランス王ルイ15世は両国の同盟を再確認すべく、マイユボワにフランス軍の士気をスペイン軍にゆだねるよう命じた。嫌々ながらも同意したマイユボワは自軍にピアチェンツァへ向かうよう命じ、6月15日には連合軍が再集結した。
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