昭和18年の戦い
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「風雲 (駆逐艦)」の記事における「昭和18年の戦い」の解説
詳細は「ケ号作戦」を参照 1943年(昭和18年)1月18日、第10駆逐隊司令は阿部俊雄大佐から吉村真武大佐に交代した。第10駆逐隊は吉村司令のもとでガダルカナル島からの撤退作戦に参加した(ケ号作戦)。1月23日、駆逐艦5隻(秋雲、夕雲、巻雲、風雲、雪風)は南東方面部隊(指揮官草鹿任一南東方面艦隊司令長官)に編入され、そのまま外南洋部隊に所属する。2月1日の第一次作戦および2月4日の第二次作戦ではエスペランス岬へ向かう輸送隊(風雲、巻雲、夕雲、秋雲、谷風、浦風、浜風、磯風)に加わり、2月7日の第三次作戦ではラッセル諸島からの撤退作戦を行った。撤退作戦は成功したが、第一次作戦で巻雲が触雷し夕雲により雷撃処分され、また巻波も空襲で大破した(三水戦司令官は旗艦を駆逐艦白雪に変更)。第二次作戦では舞風が大破、第三次作戦で磯風が中破した。 巻雲を喪失した第10駆逐隊は、当面の間3隻編制(秋雲、夕雲、風雲)で行動を続ける。第10駆逐隊は、ひきつづき南東方面部隊隷下の外南洋部隊増援部隊に所属した。同時期の日本軍は、日本陸軍部隊の中国大陸東岸~南東方面輸送作戦を実施しており、これを丙号輸送と呼称した(丙号輸送部隊指揮官は、第九戦隊司令官岸福治少将)。2月14日、外南洋部隊指揮官はウェワク輸送作戦の兵力部署を下令、ケ号作戦に従事していた駆逐隊・駆逐艦は丙号輸送部隊に編入された。第10駆逐隊も丙号輸送部隊に組み込まれ、輸送部隊指揮官は夕雲と風雲を丙三号輸送作戦の第一輸送隊(北上、大井、讃岐丸、相良丸)の護衛に加えた。丙三号輸送は、第四十一師団(師団長阿部平輔中将)をウェワクへ輸送する任務である。輸送部隊に編入された駆逐艦は2月17日にパラオに到着。第一輸送隊は2月17日にパラオから出発し、2月20日にウェワクに到着した。 3月上旬、日本軍はビスマルク海海戦の大敗をうけて南東方面への輸送作戦を変更する。第10駆逐隊司令吉村大佐を指揮官とする駆逐艦5隻(秋雲、風雲、夕雲、五月雨、皐月)は、ウェワクとマダンの間にあるハンサ湾へ第二十師団(師団長青木重誠中将)の将兵を輸送する輸送6隻の護衛を行った(第一次ハンサ輸送)。3月8日にパラオを出発、陸軍戦闘機の掩護をうけて3月12日朝にハンサ湾到着、揚陸がおこなわれる。護衛部隊は二分割される。翌日未明、秋雲と五月雨は輸送船団を護衛してパラオへむかい、駆逐艦3隻(風雲、夕雲、皐月)はラバウルに移動、14日朝に到着した。3月19日、「風雲」と「夕雲」はツルブへ弾薬、糧食を揚陸した。その後はラバウルを経てショートランドへ再進出し、コロンバンガラ島への輸送作戦に加わる。4月1日、駆逐艦5隻(五月雨、朝雲、夕雲、風雲、秋雲)でコロンバンガラ輸送を実施した。4月3日、「風雲」はブイン入港時に触雷し第一缶室と機械室の一部に浸水した。ブインにはアメリカ軍のTBFが3月20日と21日に機雷を敷設していた。これ以降、輸送部隊から外された。4月28日、横須賀に帰投した。5月、修理をおこなった。 詳細は「キスカ島撤退作戦」を参照 5月29日、アッツ島地上戦によりアッツ島の日本軍守備隊は玉砕した。6月10日、第10駆逐隊(秋雲、風雲、夕雲)は北方部隊(指揮官河瀬四郎第五艦隊司令長官)に編入された。幌筵島に到着と共に、水雷部隊(指揮官木村昌福第一水雷戦隊司令官、海軍少将・海兵41期)に編入された。同時期に行われていたキスカ島からの第一期撤収作戦は、投入された潜水艦が次々に損傷し、6月23日に中止された。そこで水雷戦隊の出番となり、第二期ケ号作戦が実施される。第10駆逐隊は、途中反転の第一次作戦、成功した第二次作戦ともに参加した。収容部隊(阿武隈〈木村少将旗艦〉、木曾、島風、響、朝雲、薄雲、長波、秋雲、夕雲、風雲、若葉、初霜、五月雨)、主隊(多摩)、燃料補給部隊(国後、日本丸)という部隊区分だった。他の艦は収容した陸軍の装備を全て捨てていたが、風雲のみ発動艇を回収し、さらに陸戦隊が飼っていたキツネも持ち帰ったという。キツネは上野動物公園に寄贈された。撤退作戦を終えた後、第10駆逐隊は8月3日付で機動部隊に復帰した。横須賀を経て再び南方へと向かった。 詳細は「ニュージョージア島の戦い」を参照 9月15日附で風雲駆逐艦長は吉田中佐から橋本金松少佐(当時、白露駆逐艦長)に交代した。9月20日、風雲は第三水雷戦隊(司令官伊集院松治大佐・海兵43期、旗艦「川内」)の指揮下に入り、第10駆逐隊が揃う。間もなくコロンバンガラ島からの撤退作戦である「セ号作戦」に参加した(セ号作戦の行動と経過詳細は当該記事を参照)。9月21日附で吉村は第10駆逐隊司令の職務を解かれ、天野重隆大佐(8月20日まで第21駆逐隊司令)に交代する。9月28日夜と10月2日夜に二度にわたって行われた作戦では夜襲部隊(指揮官伊集院松治第三水雷戦隊司令官、旗艦「秋雲」)として敵艦隊の出現に備えた。連合軍の巡洋艦や水雷戦隊との間で小競り合いがあった程度で特筆すべき海戦は生起せず、セ号作戦は成功裡に終わった。 詳細は「第二次ベララベラ海戦」を参照 戦いは間を置かず続けられ、日本軍はベララベラ島からの撤退作戦を実施した。10月6日未明にラバウルを出撃し、ブーゲンビル島南方海域で欺瞞航路をとった後、ベララベラ島近海に向かった。増援部隊指揮官伊集院松治第三水雷戦隊司令官(秋雲座乗)は夜襲隊(秋雲、風雲、夕雲、磯風、時雨、五月雨)を指揮して戦闘海域へ向かった。6日夜、フランク・R・ウォーカー(英語版)大佐率いる第42駆逐群の先制攻撃を受けて夜間水上戦闘が始まった(日本側呼称第二次ベララベラ海戦、連合軍呼称ベララベラ島沖海戦)。当時の日本側夜襲部隊陣形は、秋雲(三水戦旗艦)-磯風-風雲-夕雲の単縦陣であったという。戦闘開始後、風雲に後続していた夕雲が第42駆逐群の集中砲火を浴びて沈没するが、アメリカ駆逐艦シャヴァリア (USS Chevalier, DD-451) に夕雲の魚雷が命中して第42駆逐群の陣形は乱れ始めた。風雲は二番砲塔に被弾(戦死1、負傷者数名)、使用不能となった。甲型3隻(秋雲、磯風、風雲)は別働の第27駆逐隊(時雨、五月雨)と共にセルフリッジ(英語版) (USS Selfridge, DD-357) とオバノン (USS O'Bannon, DD-450) に対して魚雷を発射したが、距離が遠かったため命中しなかった。風雲は夕雲生存者を救助したが、夕雲生存者の一部はアメリカ軍にも救助されている。夕雲の沈没により、第10駆逐隊は風雲と秋雲の2隻となった。 ラバウルに帰投後、10月7日限りで外南洋部隊(第八艦隊、第三水雷戦隊)の指揮下から離れ、原隊に復帰した。秋雲とともにツルブへの輸送作戦を行った後、第三艦隊(司令長官小沢治三郎中将・海兵37期)に合流してエニウェトク環礁へ進出した。10月28日、連合艦隊はろ号作戦を発動する。第一航空戦隊の航空隊をラバウル陸上基地に転用し、第十戦隊や第二水雷戦隊から一部艦艇を抽出、一航戦の基地員や物件をトラックからカビエンもしくはラバウルへ輸送することになった。風雲と大波は第二部隊として10月31日にトラックを出発、11月1日カビエンに到着した。 詳細は「ブーゲンビル島の戦い」および「ブーゲンビル島沖海戦」を参照 11月1日、南東方面部隊はブーゲンビル島タロキナ逆上陸作戦に関連し、第三襲撃部隊(阿賀野、若月、初風、風雲、大波、長波)を編成した。だが風雲と大波は輸送作戦に従事していたので、同日深夜に生起したブーゲンビル島沖海戦には参加できなかった。ラバウルに進出した風雲はタロキナ逆上陸作戦部隊に加わる。同時期にラバウルへ進出した第二艦隊司令長官栗田健男中将指揮下の重巡洋艦戦隊は、11月5日のラバウル空襲により大打撃を受ける。即日、ラバウルを撤収した。ラバウルに残った水雷戦隊でタロキナ逆上陸作戦はつづけられ、第一支援隊(阿賀野、若月、浦風)として輸送作戦を支援した。11月11日、米軍機動部隊は再度のラバウル空襲を敢行、日本側は駆逐艦涼波が沈没するなど損害を受ける。第十戦隊・第二水雷戦隊の大部分はラバウルから退却した。 トラックに帰投後、タラワ地上戦にともない機動部隊・遊撃部隊各艦と共にマーシャル諸島へ進出した。その後、駆逐艦3隻(風雲、秋雲、山雲)は戦艦大和と空母翔鶴を護衛してトラックを出港、12月17日に横須賀へ帰投した。12月21日、司令駆逐艦は風雲から秋雲にかわった。その後、風雲は東京石川島造船所で修理、対空兵器増設、電探装備工事を行った。
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昭和18年の戦い
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「望月 (駆逐艦)」の記事における「昭和18年の戦い」の解説
1943年(昭和18年)1月9日、駆逐艦「望月」、水雷艇「鴻」は輸送船「西阿丸」を護衛してニュージョージア島ムンダ輸送を実施した。13日、「望月」は敷設艦「津軽」と共にサンタイサベル島レカタへの輸送を実施。その際、座礁して損傷する。何度も損傷した「望月」は2月に佐世保に帰港し、修理に従事する。 3月より再びラバウル方面で輸送任務に従事した。3月28-29日、天霧と共に第12防空隊50名と糧食弾薬をレカタ基地へ輸送した。30日、三日月、望月、卯月で第30駆逐隊が再編され、南東方面艦隊・第八艦隊・第三水雷戦隊(秋山輝男少将)に所属した。望月は第11航空戦隊、958空水偵部隊と共にビスマルク諸島方面航空部隊にも配属された。 4月2日-3日、「雪風、天霧、望月」はサンタイサベル島・レカタ基地輸送を実施した。4月7日、「天霧、望月」でレカタ輸送を実施するがB-17重爆1機の攻撃で「天霧」が損傷した(死傷者10名)。4月29日-30日、「天霧、夕霧、望月」で呉鎮守府第七特別陸戦隊司令官勝野実少将や歩兵第23連隊230名、弾薬糧食等をレカタへ輸送した。5月3日(第二回)、5月7日(第三回)、5月10日(第四回)と、この3隻で輸送作戦を実施した。4月下旬〜5月上旬の月暗期輸送はこれで終了し、次の月暗期(レカタ方面6月末、コロンバンガラ方面7月末)まで物資の集積に努める。4月下旬〜5月上旬のレカタ方面における輸送総量は、進出(陸軍820名、海軍306名)と後送(陸軍507名、海軍58名)及び燃料弾薬90トン・糧食150トンであったという。 5月下旬、月暗期となったため日本海軍は駆逐艦輸送を再開した。5月28日と5月31日、「望月、天霧」はブイン〜レカタ輸送(二回の合計佐七特陸戦隊464名、物件220トン、燃料120缶)を実施した。6月4日-5日、「天霧、望月、皐月」はラバウル〜ツルブ輸送を実施。6月6日-7日、「長月、望月」によるツルブ輸送を実施。並行して潜水艦による『モグラ輸送』が行われた。6月27日-28日、「望月、皐月、夕凪」によるコロンバンガラ島輸送(陸兵900名、物資100トン)を実施した。直後の6月30日、米軍はレンドバ島に上陸、ニュージョージア島の戦いがはじまる。 詳細は「クラ湾夜戦」を参照 外南洋部隊水上部隊指揮官秋山輝男第三水雷戦隊司令官は、司令官直率部隊(秋月型駆逐艦/旗艦新月、望月、皐月、夕凪)、先行部隊(天霧、初雪、長月、水無月、三日月)を指揮してラバウルやブインから出撃、レンドバ島西方海面に到達したが米艦隊と遭遇しなかった。7月2日夜、秋山司令官は直率隊(新月《旗艦》、天霧、初雪、長月、皐月、望月)と陽動隊(軽巡夕張、駆逐艦《夕凪、三日月》)を率いてレンドバ島沖合に突入した。だが米艦隊は出現せず、日付変更後に米軍魚雷艇と米軍機夜間空襲を受け、魚雷艇2隻を撃沈して撤収した。その頃、米軍はニュージョージア島へ上陸を開始、日本軍はコロンバンガラ島への緊急輸送を企図する。第一回輸送部隊(第22駆逐隊司令金岡国三大佐:第22駆逐隊《長月、皐月》、新月、夕凪)と第二回輸送部隊(第11駆逐隊《天霧、初雪》、第30駆逐隊《望月、三日月》)が編制されてブインを出撃するが、第一回輸送隊は米艦隊(巡洋艦4、駆逐艦4)と遭遇し駆逐艦1隻を撃沈、だが輸送作戦そのものは中止に至った。 7月5日、南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将は増援部隊全力によるコロンバンガラ島輸送を命じ、秋山三水戦司令官は新たに陽炎型駆逐艦2隻(浜風、谷風)と白露型駆逐艦1隻(涼風)を編制に加える。秋山少将直率隊(新月、涼風、谷風)、第一次輸送隊(望月、三日月、浜風)、第二次輸送隊(天霧、初雪、長月、皐月)という部署であった。同日夕刻、第三水雷戦隊はショートランド泊地を出撃、コロンバンガラ島到着直前の2348よりウォルデン・L・エインズワース少将率いる米艦隊(巡洋艦3、駆逐艦4)との夜間水上戦闘が勃発する(クラ湾夜戦)。「新月、涼風、谷風、天霧、初雪」が砲戦魚雷戦を展開する中、「望月」は大発動艇の曳索をスクリューに巻き込む事故を起こし、「浜風、三日月」から遅れてしまう。7月6日午前3時、揚陸を終えた「望月」は単艦で帰途につくが、4時10分に米艦隊から砲撃を受け小破、魚雷1本を発射して戦場を離脱した。本海戦で「新月」が沈没、「長月」が座礁放棄。とくに「新月」沈没により全乗組員と秋山少将以下第三水雷戦隊司令部は総員戦死。他の駆逐艦も損傷した。米軍は軽巡「ヘレナ」が沈没した。損傷した「初雪、望月」はラバウルへ後退し、15日まで応急修理を実施している。 増援部隊(第三水雷戦隊)は一時的に司令官不在となったため、重巡洋艦「鳥海」艦長有賀幸作大佐が代理に指揮をとる。7月7日、伊集院松治大佐(前職戦艦金剛艦長)が第三水雷戦隊司令官に任命され、10日に着任した。しかし前述のように三水戦は参謀や司令部要員ごと全滅しており、そこで第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将(旗艦「神通」)が増援部隊の指揮を執ることになった。ところが7月12日夜のコロンバンガラ島沖海戦で「神通」は沈没し伊崎司令官および第二水雷戦隊司令部も全滅。第七戦隊司令官西村祥治少将が当面の指揮を執ることになった。 一連のクラ湾夜戦とコロンバンガラ島沖海戦で日本軍は米軍水上部隊に大打撃を与えたと判断し、コロンバンガラ島方面での敵艦隊撃滅と輸送作戦を行う計画をたてる。第七戦隊司令官西村少将を指揮官とし、主隊(熊野、鈴谷)、水雷戦隊(川内、皐月、水無月、雪風、浜風、清波、夕暮)、輸送隊(三日月、夕凪、松風)という戦力が集結、16日2200にラバウルを進出してブインへむかった。「初雪、望月」は西村艦隊に先行して16日夕刻にラバウルを出撃、17日午前5時にブインへ入港。「初雪」は「水無月」に、「望月」は「皐月」に横付けして物件・重油の移載をおこなう。7月17日朝、ブインは大型爆撃機19、戦爆約150機の大空襲を受ける。被弾した「初雪」は沈没、「皐月、水無月」が小破、翌日にも空襲を受け「望月」が小破した。これを受けて西村艦隊は一旦ラバウルへ帰投、戦力を再編したのち18日に再出撃した。19日-20日、輸送作戦には成功したものの、夜間空襲により重巡「熊野」小破、駆逐艦「清波、夕暮」沈没という損害を受けて戦果はなかった。増援部隊艦艇は一時ラバウルに後退し、修理をおこなう。 僚艦の三日月がツルブ輸送を実施中に座礁し、7月28日に空襲で沈没した。29日、望月と皐月の応急修理が完成した。2隻は損傷した重巡熊野を護衛してラバウルを出発、トラックに向かった。望月はサイパンを経由して8月15日に佐世保へ到着、修理に入った。9月21日に佐世保を出撃、トラック泊地を経由して29日にラバウルに戻り、引き続き護衛作戦に投入された。10月7日-8日、天霧、皐月と共にスルミに、21日-22日は天霧とブカ島輸送を実施した。
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昭和18年の戦い
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「秋雲 (駆逐艦)」の記事における「昭和18年の戦い」の解説
1943年(昭和18年)1月上旬、呉海軍工廠での修理を終える。1月6日、特型運貨筒を積載してトラック泊地へ向かう水上機母艦(甲標的母艦)「日進」を護衛して、「秋雲」は瀬戸内海を出発した。1月18日附で、第10駆逐隊司令は阿部俊雄大佐(後日、軽巡大淀艦長、空母信濃艦長)から吉村真武大佐 に交代(吉村大佐は1月7日まで軽巡龍田艦長)。同日、岩国沖を出撃、大和型戦艦2番艦「武蔵」、第一航空戦隊(瑞鶴、瑞鳳)、護衛艦6隻(軽巡《神通》、第10駆逐隊《秋雲、夕雲、巻雲、風雲》、第16駆逐隊《雪風》)という編制でトラック泊地へと向かった。1月23日、トラックに到着。3度にわたるガダルカナル島からの撤退作戦である「ケ号作戦」に全て参加する。なお、航海中の1月19日に第十戦隊旗艦「秋月」が米潜水艦ノーチラス(USS Nautilus, SF-9/SS-168)の雷撃で大破、その際に木村司令官は負傷したため1月21日附で第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将が第十戦隊司令官に任命された。 詳細は「ケ号作戦」を参照 2月1日からの第一次作戦では692名の人員を収容してショートランドに帰投する。2月4日からの第二次作戦、2月7日からの第三次作戦でも被害を受けることなく作戦を遂行した。同作戦中、「巻雲」が沈没して第十駆逐隊は3隻(秋雲、夕雲、風雲)となった。 「ケ号作戦」終了後はパラオに移動し、ニューギニアの戦いに投入される第四十一師団主力をウェワクへ輸送する丙三号輸送に参加。「秋雲」の編入された第三輸送隊 は2月21日にパラオから出発し、2月24日にウェワクに着いた。 3月に、ウェワクとマダンの間にあるハンサ湾への第二十師団の一部などの輸送(第一次ハンサ輸送)に参加。「秋雲」と「風雲」、「夕雲」、「五月雨」、「皐月」が輸送船6隻 を護衛して3月6日にパラオから出発し、3月12日にハンサ湾に到着した。帰路は「秋雲」と「五月雨」が船団を護衛してパラオへ向かったが、途中でB-17の爆撃により輸送船「桃山丸」が沈没。「秋雲」は91名を収容した。 その後はラバウルへ進出。4月1日、「秋雲」と「五月雨」、「朝雲」、「夕雲」、「風雲」はショートランドへ人員、弾薬などを揚陸(コロンバンガラへの輸送予定であったが敵機の妨害のため引き返した)。4月5日、「秋雲」と「五月雨」、「朝雲」、「夕雲」はコロンバンガラへの輸送を行なった。輸送したものは不明。4月10日、「秋雲」と「夕雲」はフィンシュハーフェンへの輸送に向かうが、敵機の攻撃を受けたため目的地を変更しニューブリテン島ツルブへ兵員などを揚陸した。 このあと、第十戦隊(旗艦《阿賀野》、第16駆逐隊《雪風》、第10駆逐隊《夕雲、秋雲》)は第一航空戦隊(瑞鶴、瑞鳳)を護衛して内地へ帰投、「秋雲」も5月9日に横須賀に帰投した。5月23日には、木更津沖に停泊する連合艦隊旗艦「武蔵」に横付けして、4月18日に機上戦死(海軍甲事件)を遂げた連合艦隊司令長官山本五十六元帥(海兵32期)の遺骨を引き取り、横須賀に上陸させるという大任も仰せつかった。5月31日から6月5日までは横須賀海軍工廠で整備を行い、電波兵器の新設工事等を実施した。 詳細は「キスカ島撤退作戦」を参照 6月10日、第六駆逐隊(「秋雲」、「風雲」、「夕雲」)は北方部隊に編入。6月13日に幌筵海峡に到着し、北方部隊の水雷部隊に編入された。7月に行われたキスカ島撤退作戦には途中反転の第一次作戦、成功した第二次作戦ともに収容駆逐隊として参加。463名の人員を収容して幌筵島に帰投した。撤退作戦を終えた後は8月3日付で機動部隊に復帰し、横須賀を経て 呉へ向かう。8月16日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将直率の主力部隊(戦艦3隻〈大和、長門、扶桑〉、空母〈大鷹〉、巡洋艦3隻〈愛宕、高雄、能代〉、駆逐艦部隊〈涼風、海風、秋雲、夕雲、若月、天津風、初風〉)は呉を出撃し、トラックへ向かう。9月5日付で第三水雷戦隊(司令官伊集院松治大佐・海兵43期)に編入され、ラバウル進出後は「セ号作戦」の旗艦を務め、二度にわたるコロンバンガラ島からの撤退作戦を成功させた。コロンバンガラ島からの日本軍の撤退は、同時に隣接するベララベラ島守備隊の役割が終わった事を意味していたので、ベララベラ島からの撤退も急遽行われる事となった。この作戦中の9月21日附で吉村は第10駆逐隊司令の職務を解かれ(10月11日より阿賀野型軽巡洋艦3番艦矢矧艤装員長)、天野重隆大佐(8月20日まで第21駆逐隊司令) に交代する。 詳細は「第二次ベララベラ海戦」を参照 10月5日朝5時、第三水雷戦隊司令官伊集院大佐は夜襲隊(秋雲《旗艦:伊集院司令官座乗》、風雲、夕雲、磯風、時雨、五月雨)を率いてラバウルを出撃。ブーゲンビル島北方海域で輸送部隊と合流の後ベララベラ島に接近する。この時、両部隊はアメリカ軍偵察機によって発見されており、これに基づいてフランク・R・ウォーカー(英語版)大佐率いる第4駆逐部隊がベララベラ島近海に急行した。夜半過ぎにウォーカー大佐率いる第4駆逐部隊がレーダーで夜襲部隊あるいは輸送部隊と思われる目標を探知し、日本側も風雲・時雨・五月雨が相次いで敵影を発見した。引き続き旗艦を務める「秋雲」も見張り員や水雷長、砲術長が少なくとも3隻の巡洋艦および駆逐艦を発見していたが、第三水雷戦隊の先任参謀に「味方の間違いではないか」と問いただされた。相馬艦長は見張り員や水雷長、砲術長の言い分を総合して相手が敵であると確信し、伊集院大佐に「司令官、敵ではありませんか」と助言し終えた瞬間、第4駆逐部隊からの先制攻撃を受けた。こうして始まった海戦、後に第二次ベララベラ海戦と呼ばれる戦いは、日本側は「夕雲」を失ったものの、ベララベラ島からの人員撤収には成功した。アメリカ側はシャヴァリア (USS Chevalier, DD-451) が大破処分されたほか、ウォーカー大佐が座乗したセルフリッジ (USS Selfridge, DD-357) も魚雷命中で艦首を失って大破し、オバノン (USS O'Bannon, DD-450) は航行不能となったシャヴァリアに追突して損傷、撤収作戦を阻止する事ができなかった。 海戦後はトラック方面に下がって、機動部隊とともにエニウェトク環礁方面を行動した他、トラックと横須賀間の護衛任務に従事する。10月31日、「夕雲」の代艦として朝潮型(満潮型)駆逐艦「朝雲」が第10駆逐隊に加入(朝雲は第九駆逐隊からの転出)、第10駆逐隊は3隻編制(風雲、秋雲、朝雲)となる。11月11日、秋雲駆逐艦長は初春型駆逐艦4番艦初霜駆逐艦長の入戸野焉生少佐に交代となる。11月24日、「秋雲」はクェゼリン環礁へ向かう特設運送船(給油)東亜丸(飯野海運、10,052トン)を護衛してトラックを出港するが、翌11月25日にポンペイ島北方海域でアメリカ軍の潜水艦シーレイヴン (USS Searaven, SS-196) の雷撃により東亜丸が沈没した。ただちに爆雷攻撃を行ったものの、シーレイヴンを取り逃がした。その後はトラックとパラオ間の護衛任務を行った。12月3日、軽巡「阿賀野」(十戦隊旗艦)の損傷時に負傷した第十戦隊司令官大杉守一少将は退任、木村進少将(初代第十戦隊司令官)が再び第十戦隊司令官職に就いた。12月12日、駆逐艦4隻(秋雲、風雲、山雲、谷風)は大型艦2隻(空母《翔鶴》、戦艦《大和》)を護衛してトラックを出発、17日に横須賀へ帰着した。
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昭和18年の戦い
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「神通 (軽巡洋艦)」の記事における「昭和18年の戦い」の解説
1943年(昭和18年)1月16日、五十鈴は第二水雷戦隊から第十六戦隊に編入された。同日附で神通は呉鎮守府部隊から第二水雷戦隊に編入された。 この間、二水戦旗艦は五十鈴(ヘンダーソン基地艦砲射撃時)、駆逐艦早潮(1942年11月12日第三次ソロモン海戦時)、長波(同年11月30日ルンガ沖夜戦時旗艦)、照月(ドラム缶輸送中同年12月12日沈没)、黒潮(第六次ガ島輸送作戦時一時将旗掲揚)などが歴任していた。 1月18日、神通は呉を出撃。大和型戦艦2番艦武蔵、第二水雷戦隊神通、第一航空戦隊(瑞鶴、瑞鳳)、駆逐艦5隻(第十駆逐隊《夕雲、秋雲、巻雲、風雲》、第十六駆逐隊《雪風》)という編制だった。1月23日、トラック泊地に到着。同日、小柳司令官(旗艦長波)は退隊し、一時神通艦長の藤田俊造大佐が二水戦司令官職務を代理した。30日、伊崎俊二少将が第二水雷戦隊司令官として着任、旗艦を神通に指定している。 1月31日、ガダルカナル島からの撤退作戦ケ号作戦支援のため、神通は前進部隊警戒隊(阿賀野、長良、朝雲、五月雨、陽炎、大波、時雨、敷波、涼風、初雪、嵐)を率いて出撃、前進部隊本隊(旗艦:愛宕、高雄、妙高、羽黒、金剛、榛名)・航空部隊(隼鷹、瑞鳳等)と合流し外洋に出た。神通・朝雲・五月雨・陽炎・大波・時雨・敷波が本隊護衛、涼風が補給部隊、阿賀野以下が航空部隊の護衛という区分だった。ただしガダルカナル島の北方約700海里グリニッチ島の東方海域に行動していた為、アメリカ軍と交戦することはなかった。 2月3日、駆逐艦2隻(朝雲、五月雨)は外南洋部隊に編入されてショートランド泊地に向かった。2月9日、神通以下警戒部隊はトラック泊地帰投。それからの神通はコロンバンガラ島沖海戦に参加するまで、ルオット島輸送以外はトラック泊地で待機を続けた。 3月中、神通はトラック泊地で待機。 4月、トラック泊地で待機。 5月、トラック泊地で待機。5月8日、コロンバンガラ島輸送任務に従事していた麾下第十五駆逐隊の3隻(親潮、黒潮、陽炎)が触雷して一挙に沈没。 6月、ようやく神通に出動が命じられた。第二航空戦隊の隼鷹・飛鷹航空隊がマーシャル諸島地上基地に進出するにあたり、第四水雷戦隊(長良、時雨)等と手分けしての基地要員輸送任務を命じられたのである。2隻(軽巡《神通》、駆逐艦《江風》)の任務は、ルオット島(ロイ=ナムル島)への基地要員(314名)と軍需物資揚陸であった。 14日、二水戦(神通、江風)はトラックを出港し、16日14時ルオット島に着いた。同島への補給の困難な点・食糧事情を考慮した伊崎二水戦司令官は、両艦の糧食を2週間分残すと、残りを現地基地要員のために降ろしてしまった。17日朝に同地出発、19日夕刻トラック着。
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