アッツ島地上戦
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1943年(昭和18年)5月4日、フランシス・W・ロックウェル少将が率いる戦艦3隻、巡洋艦6隻、護衛空母1隻、駆逐艦19隻、輸送船5隻などからなる攻略部隊、第51任務部隊がアラスカのコールド湾を出港した。編成は以下の通り。 戦艦「ネヴァダ」「ペンシルベニア」「アイダホ」 護衛空母「ナッソー」 重巡洋艦「サンフランシスコ」「ルイビル」「ウィチタ」 軽巡洋艦3隻 駆逐艦19隻 輸送船4隻など 上陸部隊はA・E・ブラウン陸軍少将が指揮する陸軍第7師団1万1000名であった。アメリカ軍の作戦名は「ランドクラブ作戦 (Operation Landcrab)」という。 上陸部隊は洋上で天候回復を待って、5月12日に上陸を開始した。主力は霧に紛れて北海湾(Holtz Bay)と旭湾(Massacre Bay)、さらに北部海岸に上陸し、海岸に橋頭堡を築くことに成功した。 日本軍は上陸したアメリカ軍を程なく発見し、迎撃体制についた。海軍部隊の指揮は、5月10日に伊31潜水艦でアッツ島に到着した第五艦隊参謀江本弘少佐がとった。守備隊は電文でアッツ島上陸を報告した。報告を受けた北海守備隊司令部は以下の電報を送った。 「全力を揮つて敵を撃摧(げきさい)すへし隊長以下の健闘を切に祈念す 海軍に対しては直ちに出動敵艦隊を撃滅する如く要求中」 アメリカ軍は戦艦部隊でアッツ島の日本軍守備隊に対し艦砲射撃をおこなったが、有効な損害を与えられなかった。地上戦は1日目は両軍とも霧に遮られ、散発的な戦闘を行っただけであった。2日目の5月13日に北海湾から上陸したアメリカ軍北部隊は周辺を一望できる芝台(Hill X)にある日本軍の陣地を霧に紛れて接近、包囲し、一個中隊に陣地を攻撃させた。日本軍はすかさず機関銃と小銃射撃でこれを撃退したが、陣地の位置が露見し、野砲と艦砲の激しい砲撃と艦上機からの銃爆撃を浴びせられ、たこつぼと塹壕だけの陣地は大きな損害を受け100名前後の戦死者が出るにいたって守備隊は芝台陣地を放棄し退却した。芝台を奪われた日本軍は西浦(West Arm)の南の舌形台(Moore Ridge)に防御の拠点を移し、高地を巡って15日まで米軍と激しい戦闘を行った。日本軍は高射砲を水平射撃してアメリカ軍を砲撃したが、精度は低かった。 一方、旭湾に上陸したアメリカ軍南部隊も前進を開始した。平地の霧が晴れる一方、山上の日本軍陣地は霧に包まれたままであったという。米軍兵士の証言によると、戦艦ネバダの14インチ砲が火を噴くたび、日本兵の死骸、砲の破片、銃の断片、それに手や足が山の霧の中から転がってきたという。この部隊は虎山(Gilbert Ridge)と臥牛山に挟まれ三方を山地に囲まれた渓谷で日本軍と遭遇し、三方向からの十字砲火を受け第17連隊長アーノル大佐が戦死し混乱状態に陥った。この渓谷はアメリカ軍に「殺戮の谷」(Massacre Valley)と称されることになる。その後、北部隊と合流すべく臥牛山の日本軍陣地に一個大隊で攻撃を仕掛けたが、高地から平原を見下ろす日本軍は迫撃砲や機銃などでこれを防ぎ、アメリカ軍を海岸まで後退させた。 各地で日本軍はアメリカ軍の攻撃を防いでいたが、15日にはアメリカ軍の砲爆撃によってアメリカ軍北部隊を押さえていた日本陣地が損害を受けた。16日、アメリカ軍はこの機を逃さずに部隊を前進させた。北部の日本軍は舌形台を放棄し、山崎部隊長は戦線を熱田(Chichagof)に後退させた。この際に守備隊は武器弾薬の補給及び一個大隊の増援の要請をおこない、揚陸地点を指定した電報を打った。同じく南部の陣地も砲爆撃を受け、これにあわせてアメリカ軍は戦車5両を突入させ一気に突破を図り、南部の日本軍は戦線縮小の命令を受け後方の陣地に転進した。18日からアメリカ軍は勢いに乗り縮小された日本軍の戦線に攻撃を加えたが、日本軍の各陣地は、将軍山(Black Mountain)や獅子山(Cold Mountain)の高地に拠って抵抗し寡兵をもってアメリカ軍の攻撃を撃退した。特に荒井峠(Jarmin Pass)の林中隊は一個小隊でアメリカ軍二個中隊の攻撃を防いだ。 ブラウン少将は増援を要求したが16日に解任され、ユージーン・ランドラム少将が代わりの指揮を執った。 5月20日、大本営は北方軍に対しアッツ島への増援計画の中止を通告し、北方軍司令部は大きな衝撃を受けた。5月21日、大本営陸軍部(参謀本部)の秦彦三郎参謀次長は自ら札幌の北方軍司令部を訪ね、北方軍司令官樋口季一郎陸軍中将にアッツ島増援中止に至った事情を説明した。秦次長の帰京時の説明は以下のとおり。 “軍司令官以下克ク事情ヲ諒承シ「大命アリシ上ハ何モ申上グル事ナシ コノ上ハ大命ヲ遺憾ナク完遂スル以外ニナシ」 軍司令官モ「アッツ」ヲ攻略スルコトハ大ナル困難アリト考ヘテ居タ、ヨッテコノ大英断ヲトラレタ上ハ同感デアル 第七師団ニハ軍司令部ヨリモ少シク執着ガアル” 戦史叢書には樋口の弁明が記載されている。 “参謀次長秦中将来礼、中央部の意思を伝達するという。彼曰く「北方軍の逆上陸企図は至当とは存ずるがこの計画は海軍の協力なくしては不可能である。大本営陸軍部として海軍の協力方を要求したが海軍現在の実情は南東太平洋方面の関係もあって到底北方の反撃に協力する実力がない。ついては企図を中止せられたい」と。私は一個の条件を出した。「キスカ撤収に海軍が無条件の協力を惜しまざるに於いては」というにあった。(中略)海軍はこの条件を快諾したのであった。そこで私は山崎部隊を敢て見殺しにすることを受諾したのであった。” 21日、北方軍司令官は「中央統帥部の決定にて、本官の切望せる救援作戦は現下の状勢では不可能となれり、との結論に達せり。本官の力のおよばざること、まことに遺憾にたえず、深く陳謝す」と打電した。山崎隊長は「戦闘方針を持久より決戦に転換し、なし得る限りの損害を与える」「報告は戦況より敵の戦法および対策に重点をおく」「期いたらば将兵全員一丸となって死地につき、霊魂は永く祖国を守ることを信ず」と返電した。23日、札幌の北方軍司令官はアッツ島守備隊へ次のような電文を打った。 「(前略)軍は海軍と協同し万策を尽くして人員の救出に務むるも地区隊長以下凡百の手段を講して敵兵員の燼滅を図り最後に至らは潔く玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」 命令電の中で、はじめて玉砕の言葉を使い「玉砕」が命じられた。これとは別に24日に昭和天皇からアッツ島守備隊へのお言葉(御嘉賞)が電報で伝えられ、翌日山崎部隊長は感謝の返事を送っている。一方で尾形侍従武官の記録によれば昭和天皇は大本営及び樋口らの対応を厳しく批判している。 「現地守備隊長、北方軍司令官共ニ最後ヲ完シ玉砕スヘキ悲壮ナル訓辞ヲ下シアリ 中央統帥ノ欠陥ヲ第一線将兵ノ敢闘ヲ以テ補ヒ第一線ノ犠牲ニ於テ統帥ヲ律シアル実情トナリアリ 甚タ遺憾ナリ」 。 アメリカ軍の砲爆撃は正確で威力が高く、21日に南部の戦線も突破され、主力は北東のかた熱田へと追い詰められることとなった。日本軍は大半の砲を失い食料はつきかけていた。兵力は1,000名前後までに減り、各地の日本軍はアメリカ軍の攻撃に対してなおも激しい抵抗を続け白兵戦となったが、28日までにほとんどの兵力が失われ陣地は壊滅した。翌29日、戦闘に耐えられない重傷者が自決し、山崎部隊長は生存者に熱田の本部前に集まるように命令した。各将兵の労をねぎらった後に最後の電報を東京の大本営へ宛てて最後に打電した。 二十九日一四三五、海軍五一通信完了、一九三〇北海守備隊受領「一 二十五日以来敵陸海空の猛攻を受け第一線両大隊は殆んと壊滅(全線を通し残存兵力約150名)の為要点の大部分を奪取せられ辛して本一日を支ふるに至れり 二 地区隊は海正面防備兵力を撤し之を以て本二十九日攻撃の重点を大沼谷地方面より後藤平敵集団地点に向け敵に最後の鉄槌を下し之を殲滅 皇軍の真価を発揮せんとす 三 野戦病院に収容中の傷病者は其の場に於て軽傷者は自身自ら処理せしめ重傷者は軍医をして処理せしむ 非戦闘員たる軍属は各自兵器を採り陸海軍共一隊を編成 攻撃隊の後方を前進せしむ 共に生きて捕虜の辱しめを受けさる様覚悟せしめたり 四 攻撃前進後無線電信機を破壊暗号書を焼却す 五 状況の細部は江本参謀及び沼田陸軍大尉をして報告せしむる為残存せしむ (以下略)」 北二区電第九二号(一八四〇、海軍五一通より通報)「五月二十九日決行する当地区隊夜襲の効果を成るへく速かに偵察せられ度 特に後藤平 雀ヶ丘附近」 当時のアッツ島の様子を伝える貴重な史料である辰口信夫曹長の日記もこの日が最後となっている。最後の突撃の直前、山崎部隊長はほとんどの書類を焼却したため、当時の様子を偲ばせる数少ない資料である。 “夜二〇時本部前に集合あり。野戦病院隊も参加す。最後の突撃を行ふこととなり、入院患者全員は自決せしめらる。僅かに三十三年の命にして、私は将に死せんとす。但し何等の遺憾なし。天皇陛下万歳。聖旨を承りて、精神の平常なるは我が喜びとすることなり。十八時総ての患者に手榴弾一個宛渡して、注意を与へる。私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻耐子よ、さようなら。どうかまた会ふ日まで幸福に暮して下さい。ミサコ様、やっと四才になったばかりだが、すくすくと育って呉れ。ムツコ様、貴女は今年二月生れたばかりで父の顔も知らないで気の毒です。 ○○様、お大事に。○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、さようなら。 敵砲台占領の為、最後の攻撃に参加する兵力は一千名強なり。敵は明日我総攻撃を予期しあるものの如し。” 第五艦隊の江本弘海軍少佐、海軍省嘱託秋山嘉吉、沼田宏之陸軍大尉は戦況報告のため最後の突撃から外され、アッツ湾東岬に移動して潜水艦による回収を待つことになった。船舶工兵一個分隊に護衛されていたとも伝えられる。一方、熱田島守備隊は無線機を破壊した。日本軍残存部隊は夜の内に米軍の上陸地点を見下ろす台地に移動し、そこから山崎部隊長を陣頭に平地へ下る形で最後の突撃を行った。弾薬はすでに尽き、銃剣による突撃であった。この意表を突いた突撃によってアメリカ軍は混乱に陥った。日本軍は大沼谷地(Siddens Valley)を進み、布陣していた米陸軍工兵第50連隊の陣地を襲い、一部は突破したが、工兵隊の丘(Engineer Hill)で猛反撃を受け。アメリカ軍は降伏を勧告したが「玉砕」した。なおこの突撃中、山崎部隊長は終始、陣頭で指揮を執っていた事が両軍によって確認されている。米軍のある中尉は「右手に軍刀、左手に国旗を持っていた」という証言を残している。 「自分は自動小銃をかかえて島の一角に立った。霧がたれこめ100m以上は見えない。ふと異様な物音がひびく。すわ敵襲撃かと思ってすかして見ると300〜400名が一団となって近づいてくる。先頭に立っているのが山崎部隊長だろう。右手に日本刀、左手に日の丸をもっている。どの兵隊もどの兵隊も、ボロボロの服をつけ青ざめた形相をしている。手に銃のないものは短剣を握っている。最後の突撃というのに皆どこかを負傷しているのだろう。足を引きずり、膝をするようにゆっくり近づいて来る。我々アメリカ兵は身の毛をよだてた。わが一弾が命中したのか先頭の部隊長がバッタリ倒れた。しばらくするとむっくり起きあがり、また倒れる。また起きあがり一尺、一寸と、はうように米軍に迫ってくる。また一弾が部隊長の左腕をつらぬいたらしく、左腕はだらりとぶら下がり右手に刀と国旗とをともに握りしめた。こちらは大きな拡声器で“降参せい、降参せい”と叫んだが日本兵は耳をかそうともしない。遂にわが砲火が集中された…」 日本軍側には記録がないが、米軍側の記録によれば、日本軍にはなお分散した残存兵力があり、その掃討に数日を要した。すなわち、「玉砕」に加わらなかった者、加わったが米軍の反撃の厳しさにいったん撤退した者が存在したことを示している。 日本軍の損害は戦死2,638名、捕虜は29名で生存率は1パーセントに過ぎなかった。5月21日時点では二割弱の兵力損失だったが、大本営より増援中止を伝達されてから八割強が斃れたことになる。江本少佐と沼田大尉の収容にむかった伊号第二十四潜水艦は6月上旬に幾度かアッツ島へ突入したが、連絡に失敗した。6月11日、伊24潜水艦は哨戒機とパトロール艇により撃沈された。江本少佐一行はアッツ島東海岸突端の洞窟で自決し、戦後になって日本側慰霊団により発見された。アメリカ軍損害は戦死約600名、負傷約1,200名であった。
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