アッツ島地上戦とは? わかりやすく解説

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アッツ島地上戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 02:16 UTC 版)

アッツ島の戦い」の記事における「アッツ島地上戦」の解説

1943年昭和18年5月4日フランシス・W・ロックウェル少将率い戦艦3隻、巡洋艦6隻、護衛空母1隻、駆逐艦19隻、輸送船5隻などからなる攻略部隊、第51任務部隊アラスカコールド湾を出港した編成以下の通り戦艦ネヴァダ」「ペンシルベニア」「アイダホ護衛空母ナッソー重巡洋艦サンフランシスコ」「ルイビル」「ウィチタ軽巡洋艦3隻 駆逐艦19輸送船4隻など 上陸部隊A・Eブラウン陸軍少将指揮する陸軍第7師団1万1000であったアメリカ軍の作戦名は「ランドクラブ作戦 (Operation Landcrab)」という。 上陸部隊洋上天候回復待って5月12日上陸開始した主力紛れて北海湾(Holtz Bay)と旭湾(Massacre Bay)、さらに北部海岸上陸し海岸橋頭堡を築くことに成功した日本軍上陸したアメリカ軍程なく発見し迎撃体制についた海軍部隊指揮は、5月10日伊31潜水艦アッツ島到着した第五艦隊参謀江本少佐がとった。守備隊電文アッツ島上陸報告した報告受けた北海守備隊司令部は以下の電報送った。 「全力を揮つて敵を撃摧げきさい)すへし隊長以下の健闘切に祈念海軍に対して直ち出動敵艦隊を撃滅する如く要求中」 アメリカ軍戦艦部隊アッツ島日本軍守備隊対し艦砲射撃おこなったが、有効な損害与えられなかった。地上戦1日目両軍とも遮られ散発的な戦闘行っただけであった2日目5月13日北海湾から上陸したアメリカ軍北部隊は周辺一望できる芝台(Hill X)にある日本軍陣地紛れて接近包囲し一個中隊陣地攻撃させた。日本軍すかさず機関銃小銃射撃でこれを撃退したが、陣地位置露見し野砲艦砲激し砲撃艦上機からの銃爆撃浴びせられたこつぼ塹壕だけの陣地大きな損害を受け100前後戦死者が出るにいたって守備隊芝台陣地放棄し退却した芝台奪われ日本軍西浦(West Arm)の南の舌形台(Moore Ridge)に防御拠点移し高地巡って15日まで米軍激し戦闘行った日本軍高射砲平射撃してアメリカ軍砲撃したが、精度低かった一方、旭湾に上陸したアメリカ軍南部隊も前進開始した平地晴れ一方山上日本軍陣地包まれたままであったという。米軍兵士証言によると、戦艦ネバダ14インチ砲が火を噴くたび、日本兵死骸、砲の破片、銃の断片、それに手や足が山の霧の中から転がってきたという。この部隊は虎山(Gilbert Ridge)と臥牛山挟まれ三方山地囲まれ渓谷日本軍遭遇し三方向からの十字砲火を受け第17連隊長アーノル大佐戦死し混乱状態に陥った。この渓谷アメリカ軍に「殺戮の谷」(Massacre Valley)と称されることになる。その後北部隊と合流すべく臥牛山日本軍陣地一個大隊攻撃仕掛けたが、高地から平原を見下ろす日本軍迫撃砲機銃などでこれを防ぎアメリカ軍海岸まで後退させた。 各地日本軍アメリカ軍攻撃防いでいたが、15日にはアメリカ軍の砲爆撃によってアメリカ軍北部隊を押さえていた日本陣地損害受けた16日アメリカ軍はこの機を逃さず部隊前進させた。北部日本軍は舌形台を放棄し山崎部隊長戦線熱田(Chichagof)に後退させた。この際守備隊武器弾薬補給及び一個大隊増援要請おこない揚陸地点指定した電報打った同じく南部陣地も砲爆撃を受け、これにあわせてアメリカ軍戦車5両を突入させ一気突破図り南部日本軍戦線縮小命令を受け後方陣地転進した18日からアメリカ軍勢い乗り縮小され日本軍戦線攻撃加えたが、日本軍の各陣地は、将軍山(Black Mountain)や獅子山(Cold Mountain)の高地拠って抵抗し寡兵をもってアメリカ軍攻撃撃退した。特に荒井峠(Jarmin Pass)の林中隊は一個小隊アメリカ軍個中隊の攻撃防いだブラウン少将増援要求した16日解任され、ユージーン・ランドラム少将代わり指揮を執った。 5月20日大本営北方軍対しアッツ島への増援計画の中止通告し北方軍司令部大きな衝撃受けた5月21日大本営陸軍部参謀本部)の秦彦三郎参謀次長は自ら札幌北方軍司令部訪ね北方軍司令官樋口季一郎陸軍中将アッツ島増援中止至った事情説明した。秦次長帰京時の説明以下のとおり。 “軍司令官以下克ク事情諒承シ「大命アリシ上ハ何モ申上グルナシ コノ上ハ大命遺憾ナク完遂スル以外ニナシ軍司令官モ「アッツ」ヲ攻略スルコトハ大ナル困難アリトヘテ居タ、ヨッテコノ大英断ヲトラレタ上ハ同感デアル 第七師団ニハ軍司令部ヨリモシク執着ガアル” 戦史叢書には樋口弁明記載されている。 “参謀次長中将来礼、中央部意思伝達するという。彼曰く北方軍逆上企図至当とは存ずるがこの計画海軍協力なくしては不可能である。大本営陸軍部として海軍協力方を要求した海軍現在の実情南東太平洋方面の関係もあって到底北方反撃協力する実力がない。ついては企図中止せられたい」と。私は一個条件出した。「キスカ撤収海軍無条件協力惜しまざるに於いては」というにあった。(中略海軍はこの条件快諾したであった。そこで私は山崎部隊を敢て見殺しにすることを受諾したであった。” 21日北方軍司令官は「中央統帥部の決定にて、本官切望せる救援作戦現下状勢では不可能となれり、との結論達せり。本官の力のおよばざること、まことに遺憾にたえず、深く陳謝す」と打電した山崎隊長は「戦闘方針持久より決戦転換しなし得る限りの損害与える」「報告戦況より敵の戦法および対策重点をおく」「期いたらば将兵全員一丸となって死地につき、霊魂永く祖国を守ることを信ず」と返電した。23日札幌北方軍司令官アッツ島守備隊次のような電文打った。 「(前略)軍は海軍協同し万策尽くして人員救出務むるも地区隊長以下凡百の手段を講して敵兵員の燼滅図り最後に至らは潔く玉砕し皇国軍人精神精華発揮する覚悟あらんことを望む」 命令電の中で、はじめて玉砕言葉使い玉砕」が命じられた。これとは別に24日昭和天皇からアッツ島守備隊へのお言葉御嘉賞)が電報伝えられ翌日山崎部隊長感謝返事送っている。一方で尾形侍従武官記録によれば昭和天皇大本営及び樋口らの対応を厳しく批判している。 「現地守備隊長北方軍司令官共ニ最後ヲ完シ玉砕スヘキ悲壮ナル訓辞ヲ下シアリ 中央統帥欠陥第一線将兵敢闘ヲ以テ補ヒ第一線犠牲ニ於テ統帥ヲ律シアル実情トナリアリ 甚タ遺憾ナリ」 。 アメリカ軍の砲爆撃は正確で威力高く21日南部戦線突破され、主力北東のかた熱田へと追い詰められることとなった日本軍大半の砲を失い食料はつきかけていた。兵力は1,000前後までに減り各地日本軍アメリカ軍攻撃に対してなおも激し抵抗続け白兵戦となったが、28日までにほとんどの兵力失われ陣地壊滅した。翌29日戦闘に耐えられない重傷者が自決し山崎部隊長生存者熱田本部前に集まるように命令した。各将兵労をねぎらった後に最後電報東京大本営宛てて最後に打電した二十九日一四三五海軍五一通信完了一九三〇北海守備隊受領一 二十五日以来陸海空猛攻を受け第一線大隊は殆んと壊滅全線通し残存兵力150名)の為要点大部分奪取せられ辛して本一日支ふるに至れり 二 地区隊は海正面防備兵力を撤し之を以て二十九日攻撃重点大沼谷地方面より後藤平敵集団地点に向け敵に最後鉄槌下し之を殲滅 皇軍真価発揮せんとす 三 野戦病院に収容中傷病者其の場に於て軽傷者は自身自ら処理せしめ重傷者は軍医をして処理せしむ 非戦闘員たる軍属各自兵器を採り陸海軍一隊編成 攻撃隊の後方前進せしむ 共に生きて捕虜辱しめを受けさる様覚悟せしめたり 四 攻撃前進無線電信機を破壊暗号書を焼却す 五 状況細部江本参謀及び沼田陸軍大尉をして報告せしむる残存せしむ (以下略)」 北二区電第九二号一八四〇海軍五一通より通報)「五月二十九日決行する当地区隊夜襲効果を成るへく速かに偵察せられ度 特に後藤雀ヶ丘附近当時アッツ島様子伝え貴重な史料である辰口信夫曹長日記もこの日が最後となっている。最後突撃直前山崎部隊長はほとんどの書類焼却したため、当時の様子偲ばせる数少ない資料である。 “夜二〇本部前に集合あり。野戦病院隊も参加す。最後突撃を行ふこととなり、入院患者全員自決せしめらる。僅かに三十三年の命にして、私は将に死せんとす。但し何等遺憾なし。天皇陛下歳。聖旨承りて、精神平常なるは我が喜びとすることなり十八総て患者手榴弾一個渡して注意を与へる。私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻耐子よ、さようなら。どうかまた会ふ日まで幸福に暮して下さいミサコ様、やっと四才になったばかりだが、すくすく育って呉れ。ムツコ様、貴女今年二月生れたばかりで父の顔も知らないで気の毒です。 ○○様、お大事に○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、○○ちゃん、さようなら。 敵砲台占領の為、最後の攻撃参加する兵力一千名強なり。敵は明日総攻撃予期しあるものの如し。” 第五艦隊江本海軍少佐海軍省嘱託秋山嘉吉沼田宏之陸軍大尉戦況報告のため最後突撃から外されアッツ湾東岬に移動して潜水艦による回収を待つことになった船舶工兵一個分隊護衛されていたとも伝えられる一方熱田島守備隊は無線機破壊した日本軍残存部隊は夜の内に米軍の上陸地点を見下ろす台地移動し、そこから山崎部隊長陣頭平地へ下る形で最後突撃行った弾薬はすでに尽き銃剣による突撃であった。この意表突いた突撃によってアメリカ軍混乱陥った日本軍大沼谷地(Siddens Valley)を進み布陣していた米陸軍工兵50連隊陣地襲い一部突破したが、工兵隊の丘(Engineer Hill)で猛反撃を受け。アメリカ軍降伏勧告したが「玉砕」した。なおこの突撃中、山崎部隊長終始陣頭指揮を執っていた事が両軍によって確認されている。米軍のある中尉は「右手軍刀左手国旗持っていた」という証言残している。 「自分自動小銃かかえて島の一角立ったたれこめ100m以上は見えない。ふと異様な物音がひびく。すわ敵襲撃かと思ってすかして見ると300400名が一団となって近づいてくる。先頭立っているのが山崎部隊長だろう。右手日本刀左手日の丸をもっている。どの兵隊もどの兵隊も、ボロボロの服をつけ青ざめた形相をしている。手に銃のないものは短剣握っている。最後突撃というのに皆どこかを負傷しているのだろう。足を引きずり、膝をするようにゆっくり近づいて来る。我々アメリカ兵身の毛をよだてた。わが一弾が命中したのか先頭部隊長バッタリ倒れた。しばらくするとむっくり起きあがり、また倒れる。また起きあがり一尺一寸と、はうように米軍迫ってくる。また一弾が部隊長左腕つらぬいたらしく、左腕はだらりとぶら下がり右手に刀と国旗とをともに握りしめた。こちらは大きな拡声器で“降参せい、降参せい”と叫んだ日本兵は耳をかそうともしない。遂にわが砲火集中された…」 日本軍側には記録がないが、米軍側の記録によれば日本軍にはなお分散した残存兵力があり、その掃討数日要した。すなわち、「玉砕」に加わらなかった者、加わった米軍反撃厳しさにいったん撤退した者が存在したことを示している。 日本軍の損害戦死2,638名、捕虜29名で生存率1パーセントに過ぎなかった。5月21日時点では二割弱の兵力損失だったが、大本営より増援中止伝達されてから八割強が斃れたことになる。江本少佐沼田大尉収容むかった伊号第二十四潜水艦6月上旬幾度かアッツ島突入したが、連絡失敗した6月11日伊24潜水艦哨戒機パトロール艇により撃沈された。江本少佐一行アッツ島東海岸突端洞窟自決し戦後になって日本慰霊団により発見された。アメリカ軍損害戦死600名、負傷約1,200であった

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