米軍の上陸
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ホーランジアとアイタペ方面には、3月頃から米軍による空爆や陸地への艦砲射撃が相次いでいた。日本側は4月上旬の北園少将着任の頃から泥縄式に防備体制構築を図っていたが、4月16日にようやく状況把握が終わって、第54兵站司令官の石津大佐が警備責任者に部署されたという段階であった。比較的戦闘力がある南洋第6支隊と第54兵站警備隊がフンボルト湾の水際守備に配置されたが、予備の第54兵站勤務中隊を加えても合計でわずか500人足らず。タナメラ湾にいたっては、ほとんど無防備に近かったと見られる。 ホーランジアは上陸前日の4月21日にアメリカ空母部隊約600機による大規模な空襲に見舞われ、日本側航空戦力は全滅状態となった。また、ホーランジアの西側のサルミ、ワクデや東側のアイタペも空襲を受けた。日本軍は航空偵察によりニューギニアに向かう連合軍の輸送船団を発見していたが、第18軍は上陸の前日の午後においてもマダンまたはウェワク方面に上陸する可能性が高く、ホーランジアに上陸の可能性は低いと判断していた。1944年4月22日、第24師団及び第41師団を主力とする米軍が、オーストラリア海軍の重巡洋艦オーストラリア・シュロップシャー及びアメリカ海軍の軽巡洋艦ボイシ、ナッシュビルの艦砲射撃の支援の元、フンボルト湾およびタナメラ湾からホーランジアへ上陸した。主攻撃目標は、守備が特に手薄なのを見抜いてタナメラ湾を選んでいる。米軍の上陸部隊は多数の航空機などに援護され、22日のうちにホーランジアの東海岸と西海岸の地域をほぼ全域を占領することができた。日本軍は多くが軍刀や銃剣を武器とするなど満足な装備が無く、有効な抵抗ができない間に大きな損害を受け、退却を余儀なくされた。海軍部隊でも、第9艦隊司令長官遠藤喜一海軍中将が負傷、その後一時行方不明となるなど大損害を受けていた。一方で独立自動車第42大隊は山上から火のついたドラム缶を米軍めがけて転がすなどの抵抗を続けた。 4月23日の日没直後に飛来した日本軍航空機1機だけが、連合国側にとって大きな障害となった。この機が投下した爆弾は、連合軍占領下にあった日本軍の弾薬庫に命中して誘爆させ、連合軍側の物資集積所にまで延焼した。火災は24日中続き、連合軍側は「日本軍の逆上陸があった」などの誤報が飛び交う混乱状態に陥った。損害は死傷124人以上、揚陸済み物資の60%(戦車揚陸艦11隻分)が焼失する甚大なもので、揚陸地点が一時使用不能となったこととあわせて、連合軍側の兵站に相当な困難をもたらした。25日に新たな補給船団が到着して、なんとか十分な食料が兵士にいきわたるようになった。
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米軍の上陸
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「独立混成第55旅団 (日本軍)」の記事における「米軍の上陸」の解説
昭和20年4月9日朝、米軍はホロ島の飛行場方面に上陸を開始した。そして同11日夕方までに、飛行場地区とホロ市街を占領した。飛行場付近を守備していた独立歩兵第365大隊の第2中隊、第3中隊は玉砕し、大隊主力も激戦を行いつつ玉砕を期していたが、旅団参謀から持久を期すべき旨の要請があり、大隊長以下の残存兵力は、第363大隊主力が布陣するツマンタンガス山方面に転進した。また、飛行場南方のダホ山に所在した旅団司令部と第363大隊の第1中隊は、4月15日から米軍の攻撃を受けた。旅団長は同21日にダホ山を脱出し、25日にツマンタンガス山に到着した。
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