米軍のコマンチ族殲滅作戦
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「レッド川北支流の戦い」の記事における「米軍のコマンチ族殲滅作戦」の解説
詳細は「テキサスのインディアン戦争」を参照 テキサスに押し寄せてきた白人たちは、合衆国の後押しのもと、この地のインディアンからその領土を奪い、植民地を拡大していた。しかしこの地は略奪騎馬部族であるコマンチ族やカイオワ族のインディアン同盟の領土だった。 彼ら平原インディアンにとって土地は誰のものでもなく、狩りのフィールドだった。彼らはバッファローや獲物を追って大平原をティーピーで移動し、他の部族と「馬の盗み合い」に興じていた。合衆国は彼らに対し、白人に領土を明け渡し、代わりに指定保留地に定住し、略奪や馬盗みをやめ、農業を行うよう武力で圧力をかけてきた。この考えは彼らにはどうしても理解できないものだった。様々な条約が彼らと結ばれ、直後に破られた。インディアンたちは白人は信用できないものとみて、彼らを領土から追い出そうと攻撃をかけていた。 この戦闘は1873年から1874年に掛けての「レッド川戦争」の前哨になった。1872年早く、テキサス地区の新しい軍隊司令官がコマンチ族領土のコマンチェリア心臓部を今こそ叩く時だと決めた。それはその14年前にテキサス・レンジャーズが「リトルローブ・クリークの戦い」でやろうとしたことだった。ユリシーズ・グラント大統領の政権で、インディアン代理人の指名を政治的な後援者ではなく、プロテスタントの宗教組織に委ねようという「クエーカー平和政策」がまだ有効だった(クエーカー教徒が先ず参加したのでこの名前があった)。さらにインディアンは平和的あるいは強制的に居留地に移されることになっていたので、アメリカ軍は彼らに対する戦闘に関わっていなかった。この政策の下で、オクラホマのシル砦の連邦軍はコマン族に対する行動ができなかった。しかし、テキサス地区の軍隊はそれができた。 捕縛されたコマンチ族エドワルド・オルティスは米軍に、コマンチ族はリャノ・エスタカードのレッド川沿いにある冬季猟場に居ると告げた。テキサス方面軍指揮官のクリストファー・C・オーガー将軍はテキサスのコンチョ砦から、ナポレオン・ボナパルト・マクローリン大尉の指揮による派遣部隊を1872年春に2ヶ月間の偵察行動に送った。マクローリンは砦に戻り、コマンチ族の主力部隊がオルティスの言ったように宿営地に居ると確言した。オルティスは陸軍がその地帯ならばうまく操軍できるとも主張した。「リャノ・エスタカード」とはスペイン語で「柵のある平原」(ステイクト平原)を意味し、その土地は水の無い表面で、特徴の無い広がりの中の小さな谷、あるいは峡谷の中の迷路に容易に隠れることができる場所だった。オーガー将軍はラナルド・マッケンジー大佐をサンアントニオに呼び出し、そこで戦略会議を開いた。この会議から陸軍はステイクト平原のコマンチ族の本拠地に対する作戦行動を始めた。
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