連合軍占領下
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太平洋戦争後は連合国軍が進駐した。1945年(昭和20年)10月14日、戦争中の機雷による事故や銃爆撃を奇跡的に逃れていた九州郵船の旅客船「珠丸」が触雷の結果沈没し、545名を超える人命が失われる大事故があった(珠丸事件)。この日は、連合国軍総司令部による渡航差し止めが解除された日であり、珠丸は対馬経由で釜山港と博多港のあいだを航行中、旧日本軍の敷設した機雷に触れたものである。1946年(昭和21年)、戦時中の言論統制により離島新聞は廃刊を余儀なくされていたが、斉藤隼人によってタブロイド版の「対馬新聞」が創刊された。 対馬は現在も長崎県に属しているが、経済的にはかねてより福岡県との交流が密であり、戦後すぐに転県運動が起こっている。1946年には転県期成会が結成され、長崎県から福岡県への転県を国に働きかけた。福岡県議会では転県提案が可決されたものの、同年9月の長崎県議会では転県提案が否決された。それ以降も転県運動がつづいた。1949年(昭和24年)には、「対馬開発5ヵ年計画」が策定され、対馬町村会では、それを受けて対馬開発計画の実現のため転県運動中止を発表した。 1947年(昭和22年)9月には九州海運局厳原支局が、翌1948年(昭和23年)には厳原海上保安部が設置された。この年、済州島では韓国政府を承認しない島民が蜂起し、対馬では、それに対する韓国軍の鎮圧(済州島4・3事件)によって惨殺された済州島民の漂流遺体が多数収容された。 1950年(昭和25年)の朝鮮戦争、1952年(昭和27年)の李承晩による一方的な海洋主権宣言(いわゆる「李承晩ラインの設定」)など、極東情勢の緊迫化は国境の島対馬に甚大な影響をあたえた。
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連合軍占領下
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「ブロードウェイマンション」の記事における「連合軍占領下」の解説
日本が降伏した1945年8月以降、続いて日本のテナントと占有者の撤退が起こり、工部局はブロードウェイマンションの所有権を取り戻した。工部局はマンションの一部を外国特派員とアメリカ軍の残留者に貸与し、ここはアメリカ軍による蔣介石と中華民国国民政府に対する助言の活動の司令部になった。下から5階、あるいは6階部分はアメリカ軍中国支援団の将校とその扶養者によって占領され、400の兵舎がこのマンションから提供された。1階は小さなアメリカ陸軍病院になった。1945年8月、このマンションに最初に定住したアメリカ軍人の一人であるアメリカの戦闘機手ビル・ダンは「上海で、私たちは美しいヨーロッパ風のホテルであるブロードウェイマンションを宿舎にした。これにはひとつ問題があった。部屋にはベッドがなかったのである。日本の将校はここを兵舎にしており、彼らは我々の使うようなベッドを使わず、睡眠用のマットを使った。ホテルの支配人に連絡を取ると、ホテル側はすぐさま我々のために中国人をベットを運ばせて派遣してくれた。」と思い出している。この当時の支配人は、白系ロシア人の移民でそれまでは運転手長を任されていたマイケル・アレクシス・メルグノーだった。 アメリカ海兵隊による中国人少女二人へのレイプ疑惑が持ち上がると、1947年1月1日には中国の大学生の反米行進がブロードウェイマンション前で行われた。この行進の規模は最大で5000人にのぼった。このとき、中国人はアメリカ軍を英帝、日本鬼子と同様のもののようにたとえ、アメリカ軍の中国からの撤退を請求し、この影響で200人あまりのアメリカ軍人とその扶養者がアメリカへ帰還した。アメリカ系新聞会社チャイナ・ウィークリー・レヴューは中国の反米的態度の原因を「アメリカ軍警察、陸海軍の人員の乱暴な行為」のせいとしている。
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