連合軍ルソン島進攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 07:57 UTC 版)
レイテ島とミンドロ島を攻略したマッカーサーは、念願のルソン島奪還作戦を開始した。旗艦の「ナッシュビル」は特攻で破壊されたため、軽巡洋艦「ボイシ」に乗り換えたマッカーサーは、1945年1月4日に800隻の上陸艦隊と支援艦隊を率い、1941年に本間雅晴中将が上陸してきたリンガエン湾を目指して進撃を開始したが、そのマッカーサーの艦隊に立ちはだかったのが特攻機であった。まずは1月4日、護衛空母「オマニー・ベイ」に一誠隊(一式戦「隼」)が突入した。特攻機は「オマニー・ベイ」に発見されることなく1,200m以内の位置まで達すると急降下を開始、まったく対空砲火を受けることも無くそのまま飛行甲板の右舷側側に激突した。火のついた航空燃料が飛行甲板上に並べられた艦載機に降り注いで大火災を発生させ、機体と搭載爆弾は飛行甲板を貫通して格納庫で爆発した。その後に「総員戦闘配置につけ」のブザーが鳴ったが既に手遅れで、艦載機と弾薬が次々と誘爆をおこし、特攻機が突入したわずか23分後には戦死者93名を残して「総員退艦」が命じられた。1機で護衛空母1隻を葬った殊勲の特攻機は護衛戦闘機の戦果確認報告によると1番機であったとのことで、一誠隊隊長津留洋中尉の戦果であった。津留は1回目の出撃で不時着して生還しており、それから毎日戦闘指揮所にやってきては、所属する第30戦闘飛行集団の副官金川守雄中尉に「いい目標が出たら、いつでも出ますよ」と出撃を嘆願しに来た。金川は「よう来たな」とそのたびに津留をもてなし、ビールを飲みながら一緒に会食したが、津留は「うまい」と言いながら実によく食べたという。出撃日も「きょうは、やりますよ」と怯むことなく出撃したので、津留の殊勲の報告を受けた金川は「とうとう彼もやりおった」と目頭が熱くなるのを覚えて、津留の覚悟を知っていた団長の青木武三少将も喜んでいたという。「オマニー・ベイ」は陸軍が沈めた唯一の空母で、通常攻撃も含めて陸軍航空隊最大の戦果となった 特攻で損害を被りながらも、1月6日にはマッカーサーが自ら率いるルソン島攻略部隊の連合軍大艦隊がリンガエン湾に出現、第4航空艦隊第30戦闘飛行集団は死力を尽くして攻撃した。海軍の特攻機を含めたこの日の戦果は、駆逐艦1隻撃沈、戦艦4隻、巡洋艦5隻、駆逐艦5隻撃破と特攻開始してからの最大の戦果となった。なかでも重巡洋艦「ルイビル」に突入した石腸隊あるいは進襲隊の九九式襲撃機は、機体や爆弾でルイビルに甚大な損害を与えるとともに、火がついた航空燃料をまき散らして、それを全身に浴びたスリガオ海峡戦で第2戦艦部隊を指揮したセオドラ・チャンドラー(英語版)少将が重篤な火傷を負って戦死した。チャンドラーは真珠湾攻撃でのアイザック・C・キッド少将、第三次ソロモン海戦でのダニエル・J・キャラハン少将とノーマン・スコット少将と並んで、第二次世界大戦中に戦死したアメリカ海軍最高階級の将官となった。他にも戦艦「ミシシッピ」に一誠隊(一式戦「隼」)、軽巡洋艦「コロンビア」に鉄心隊あるいは石腸隊(九九式襲撃機)、がそれぞれ突入し大きな損害を与えた。日本軍は陸海軍ともに、熟練した教官級から未熟の練習生に至るまでの搭乗員が、稼働状態にある航空機のほぼ全機に乗り込んで、リンガエン湾の連合軍艦隊に襲いかかった。大規模な特攻を予想していた連合軍は、全空母の艦載機や、レイテ島、ミンドロ島に進出した陸軍機も全て投入して、入念にルソン島内から台湾に至るまでの日本軍飛行場を爆撃し、上陸時には大量の戦闘機で日本軍飛行場上空を制圧したが、日本軍は特攻機を林の中などに隠し、夜間に修理した狭い滑走路や、ときには遊歩道からも特攻機を出撃させた。そのため圧倒的に制空権を確保していた連合軍であったが、特攻機が上陸艦隊に殺到するのを抑止することができなかった。 連合軍指揮官たちはこの日の特攻による大損害に怯み、最高司令官のマッカーサーは、ルソン島上陸作戦を観戦するため戦艦「ニューメキシコ」に乗艦していたイギリス軍ハーバード・ラムズデン(英語版)中将が海軍機の特攻で戦死したことで大きな衝撃を受けている。また特攻で大破した「ナッシュビル」から乗り換えた旗艦軽巡洋艦「ボイシ」も、再三特攻機に攻撃されたがかろうじて被害はなく、ボイシ艦上で特攻機との戦闘を見つめていたマッカーサーは「奴らは我々の軍艦を狙っているが、ほとんどの軍艦は一撃をくらっても、あるいは何発もの攻撃を受けても耐えうるだろう。しかし、もし奴らが我々の兵員輸送船をこれほど猛烈に攻撃してきたら、我々は引き返すしかないだろう」と特攻は上陸作戦の成否を左右させかねないと懸念を示している。また、スリガオ海峡戦で日本軍の西村祥治中将ひきいる日本軍艦隊を撃破した第77.2任務群指揮官ジェシー・B・オルデンドルフ少将は「日本軍の特攻機は大した妨害も受けずに攻撃を実施することが可能のように見受けられる」「リンガエン地区付近の大小全ての飛行場に対して、連続的に爆撃を加え、無力化して状態をつづけさせるようにしなければならない」「これ以上さらに損害を受けると、現在の作戦及び今後の重要な作戦に、重大かつ不利な影響を与えるかも知れない」「特攻機が輸送艦を攻撃した場合、その結果は悲惨なものになるかもしれない」という切実な戦況報告を行ったが、日本軍は陸海軍ともにこの攻撃でほぼ航空機を使い果たしてしまい、こののちは散発的な攻撃しかできなかった。陸軍のフィリピンにおける最後の特攻出撃となったのが1月13日となり、この日、精華隊の2機の四式戦「疾風」が出撃、うち1機が護衛空母「サラマウア」に命中、機体と爆弾は次々と甲板を貫通し最下甲板まで達し、搭載爆弾は機関室(英語版)で爆発。そのため、サラマウアは操舵、航行不能となり、発生した火災で格納庫も炎上し、95名の死傷者を出すなど甚大な損傷を被ったが沈没は逃れた。最後まで特攻で大損害を被ったアメリカ軍のなかでは、日本軍がフィリピンにあと100機の特攻機を保有していたら、連合軍の進攻を何ヶ月か遅らせることができたという評価もある。 これら八紘隊各隊による戦果は、陸軍航空隊による特攻が開始される前のレイテ島の戦いでの第4航空軍の航空通常作戦において、1944年10月24日の飛行第3戦隊の跳飛爆撃隊22機の全滅を始めとして、1944年10月20日から26日までの通常作戦機の損失が、未帰還116機、大破17機、中破11機で合計144機と甚大であったのに対して、戦果が殆ど無かったのとは対照的であった。なお、その数少ない戦果のなかで、第4航空軍による確実な戦果はオーストラリア海軍重巡洋艦「オーストラリア」の撃破であるが、これは第4航空軍隷下の第6飛行団の九九式襲撃機が体当たりをして挙げた戦果であり、「オーストラリア」はこの体当たりでエミール・デシャニュー(英語版)艦長とジョン・レイメント副官を含む30名が戦死するなど大きな損害を受け、海軍の神風特別攻撃隊の敷島隊や陸軍初の特別攻撃隊万朶隊・富岳隊出撃前の特攻による戦果となっている。特攻に反対し、苦悩のうえで岩本ら万朶隊を送り出した鉾田教導飛行師団長の今西も、次々と報じられる特攻の戦果を聞いて特攻推進派に転じており、その後も多くの特攻隊員を送り出した。1945年年頭には「戦局は最後の段階に突入せり、昭和20年は大日本が三千年の光輝ある歴史を子孫に伝ふるか、或いは日本永遠に亡びるか必ず決定する年なり」「見よ、特別攻撃の戦果を。十分なる戦闘機の援護も無く、或いは敵艦船に、或いは敵飛行場に殺到。殆ど全機目的を達成し、挙げたる戦果と損害の比較は殆ど問題にならさる懸隔ある所以は何ぞ」などとする激烈な師団長訓示を行っている。
※この「連合軍ルソン島進攻」の解説は、「万朶隊」の解説の一部です。
「連合軍ルソン島進攻」を含む「万朶隊」の記事については、「万朶隊」の概要を参照ください。
- 連合軍ルソン島進攻のページへのリンク