連合軍占領下での独立運動
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「朝鮮独立運動」の記事における「連合軍占領下での独立運動」の解説
「連合軍軍政期 (朝鮮史)」および「済州島四・三事件」も参照 1945年9月6日、朝鮮建国準備委員会関係者の手によって朝鮮人民共和国の建国が謳われた。だが、日本の降伏前後から朝鮮への武力進駐を開始した連合国のアメリカ合衆国とソビエト連邦は朝鮮人民共和国の政府承認を拒絶し、朝鮮総督府の降伏と共に各占領地で軍政を布いて朝鮮を南北に分割統治した。連合軍占領下の朝鮮では日本統治時代と異なり、強制拠出や災害などにより疫病の流行と物価高騰が続発し、1946年10月には南朝鮮 で230万人の朝鮮人が連合国軍に対して蜂起する大邱10月事件が起き100名を超える犠牲者が出た。 朝鮮の即時独立を否定した連合国は、1945年12月にモスクワ三国外相会議を開き、朝鮮を一旦国際連合の信託統治下に置く事を決定した。この決定に対し南朝鮮では、信託統治に賛成する社会主義(ソ連)勢力の同調者(左派)と、旧大韓民国臨時政府の指導者に同調する民族主義者(右派)とで世論が二分され、テロ活動も含めた激しい抗争が起きた。最終的に信託統治構想は冷戦による米ソ対立の激化で実現されず、アメリカは1947年に朝鮮独立問題を国連総会に持ち込んだ。国連総会は「国連監視下で朝鮮全土を対象とする総選挙を実施し、国会による政府樹立を行なう」ことを決定し、選挙が可能か調べるため翌1948年1月に国連臨時朝鮮委員団(UNTCOK)を朝鮮へ派遣した。UNTCOKは同年2月に国連小総会へ「UNTCOKが『任務遂行可能な地域』(南朝鮮)での単独選挙実施案」を提出し、賛成多数で可決された。 国連の議決は、南朝鮮のみで新政府を樹立するものであり、朝鮮が独立できても南北に分離されることを意味していた。全朝鮮諸政党社会団体代表者連席会議は5.10単独選挙を阻止するために開かれた。4月19日から平壌の牡丹峰劇場での連席会議で南朝鮮の41個の政党・社会団体と北朝鮮の15個の政党・社会団体から選出された695名の代表者が参席するのだが、これは当時南北を全ての左・右勢力の大部分を網羅していた。実際に南朝鮮からは南朝鮮労働党・勤労人民党など左翼系列の政党だけでなく韓国独立党・民族自主連盟など右翼系列の政党も参加しただけではなく、朴憲永・白南雲・金九・金奎植・趙素昻などの有名人などの左翼及び右翼も参席した。 在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁が最も嫌った左派の排除に成功した李承晩と韓国民主党は、1948年5月10日に行われた国際連合監視下での総選挙に臨んだ(初代総選挙)。この選挙は「米ソ両軍撤退→南北要人会談→総選挙という順序で政府樹立」の3段階の方案に反しており、朝鮮半島の南北分断を固定化するとの理由から、民族派の金九や中道派の金奎植らの有力者も含めた大反対の中で強行され、各地で反対派による武装闘争が展開されただが、アメリカの支援を受けた李承晩や韓国民主党などによる一派は政府樹立への動きを強行し、南北分離独立に反対する市民の蜂起を軍事力やテロで鎮圧した。特に抵抗が激しかった済州島では公権力による住民の虐殺が広範囲で行われ、鎮圧までに数万人が殺害された(済州島四・三事件)。結局、国連監視下の南朝鮮単独選挙は1948年5月に実施され、短時間の独立準備を経て、同年8月15日に大韓民国政府の樹立が宣言された。残りの朝鮮地域(北朝鮮)も選挙を経て9月9日に朝鮮民主主義人民共和国が建国され、朝鮮独立運動は目標が達成された。だが、それは同時に朝鮮統一問題という新たな課題を生み、2021年に至るまで未解決となっている。
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