連合軍の迂回方針
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連合軍はラバウル攻略を意図して空襲による猛攻と、スルミ、グロスター岬へと上陸作戦を繰り返し、ラバウルに対する艦砲射撃も3度行われたが、連合軍はラバウルへの本格攻略を回避、迂回して2月29日にアドミラルティ諸島に上陸、占領し米機動部隊北上作戦の拠点泊地を構築した。連合軍空軍力の全力による1943年12月17日から3ヶ月のラバウルへの空襲総攻撃は、海軍のリア少将の上申をうけた米海軍第3艦隊司令官ハルゼー中将から米陸軍の南西太平洋方面の連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー大将の全面的協力をえて連日激戦がくりかえされていた。 他方、ちょうどこれに重なる時期、1944年に入り米陸海軍内部では太平洋方面作戦でラバウルの迂回方針が検討された。1943年11月の米海兵隊ブーゲンビル島タロキナ上陸直後の危機的状況は米空母2隻(サラトガ、プリンストン)と基地航空隊協同のラバウル強襲により無事回避したが、ハルゼーはこのあと1943年12月23日から26日までハワイでチェスター・ニミッツと打ち合わせ、アメリカ西海岸カリフォルニアの自宅で家族に会ったあと、1944年年明け - 1月末まで米国政府のあるアメリカ東海岸のワシントンに滞在し、米海軍最高指揮官のアーネスト・キング海軍大将(合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長)に「ラバウルとカビエンの占領は不要」と自説を上申した。それは、ラバウルの真東の洋上にありセント・ジョージ岬 - ブーゲンビル島の間をラバウルから北東へぬける海路を中央で阻むグリーン諸島、ラバウルの北隣ニューアイルランド島カビエンの北側を洋上で阻むセント・マシアス群島の南東小島のエミラウ島、ラバウルの西方洋上に位置しラバウルからトラック島への北西海路をエミラウ島との間で挟むアドミラルティ諸島のマヌス島を占領しラバウルを包囲遮断すれば南太平洋方面での日本軍の作戦は成立しなくなる、という予測を説明した。 1月末、ハルゼーはこの方針にニミッツ大将(中部太平洋方面の連合国最高司令官)とマッカーサー大将(南西太平洋方面の連合国最高司令官)の了解をえるため、ニミッツのいるハワイ真珠湾へ向かい会議に参加した。真珠湾での米陸海軍司令部幕僚、参謀が集合した作戦会議では、この方針に基づき、当時攻略中のグリーン島を1944年2月19日に占領、マヌス島は同年2月29日から攻略する日程が決定された。米陸軍マッカーサー司令部側はカビエンの同年4月1日攻略計画を主張した。3月には、米陸軍所轄の攻撃目標だったマヌス島までも米海軍が占領した。マヌス島には東端から北側を巨大な弓状に湾曲して伸び囲むロスネグロス島が天然の良港を形成し大艦隊を収容できるロレンゴー湾があって、米海軍は根拠地としてアドミラルティ泊地を構築した。これに対し豪州オーストラリアのブリスベーンに滞在して指揮していた米陸軍のマッカーサーは強く憤ったため、ブリスベーンで双方の和解と調整が図られた。カビエン攻略は3月14日に中止決定されその北のエミラウ島が代わりの攻略目標になった。 ラバウル迂回以降の対日作戦の攻撃方針は、ウルシー環礁、フィリピンを基地として硫黄島、沖縄、日本本州を攻撃する方針にはなっていたが、1944年5月のサンフランシスコでの作戦会議では、米海軍最高指揮官のキングはフィリピンを攻撃で破壊しないように台湾攻略を主張、レイモンド・スプルーアンス中将は中国上海の南方上山湾攻略を主張、その他、最終段階の1945年(昭和20年)春、九州攻撃までは様々な意見が出続け揺れた。この後の米海軍は新建造の大型高速空母を多数就役、訓練し実戦配備完了した大艦隊を擁し、1943年11月から1944年7月まではスプルーアンス中将の第5艦隊司令部が指揮してギルバート・マーシャル、サイパン、マリアナ群島を順次攻略し、そのあと1944年8月から1945年1月まではハルゼー中将の第3艦隊司令部がこの大艦隊の指揮を引き継ぎ台湾沖、レイテ、フィリピンを攻略していった。
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