日本におけるスクウェアダンス
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「スクウェアダンス」の記事における「日本におけるスクウェアダンス」の解説
明治19年に東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)で講習会が開かれた。 当時は「方舞」と呼ばれ、学校教育の中に取り入れられ戦前まで踊られていた。特に女子体育の教材として活用され運動会等を盛り上げた。音源はレコードなど無い時代なのでピアノやバイオリン等を用い、運動会等では軍楽隊の演奏でも踊られた。 その後、第二次大戦後の連合軍占領下時代に、一般国民の意識改革と親米を図るためにGHQに設けられた民間情報教育局(CIE)の教官として、1946年6月長崎に赴任したウィンフィールド・ニブロが主導し日本統治戦略の一手段として普及に努めた。長崎県佐世保市のハウステンボスにはニブロの記念碑があり、「ウィンフィールド・P・ニブロ記念/佐世保ハウステンボス・フォークダンスフェスティバル」が開催されたこともある。 日本の各地にクラブがありスクウェアダンスが踊られている。そのうちメインストリームプログラムを中心して踊っているクラブが集まり、各都道府県別に連絡協議会を設けパーティーの日程調整や相互交流を図っている。さらにスクウェアダンスの普及振興を目的として日本スクエアダンス協会(通称:S協)があり、社団法人日本フォークダンス連盟と連携し活動している。 日本ではコーラー、ダンサーの服装は基本的にウェスタンとなる。男性は切り返しの付いたウェスタンシャツに金属の襟飾りやスカーフを使用し、女性はパニエとパラシュートスカートが多い。チャレンジプログラムのパーティーでは服装を自由としているものが多い。
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