東京女子師範学校
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「東京女子高等師範学校」の記事における「東京女子師範学校」の解説
1873年(明治6年)11月、文部省学監のお雇い外国人・ダビッド・モルレーは申報のなかで日本も欧米諸国に倣って女性を「児童ヲ教育スル最良ノ教師」として育成することを建言し、文部少輔である田中不二麿もこれに同調して翌1874年(明治7年)1月、三条実美太政大臣に対し「東京府下ニ一箇ノ女子師範学校ヲ設ケ」る「伺」を提出した。これが承認され、同年3月13日には木戸孝允文部卿により湯島聖堂(旧昌平坂学問所)構内界隈、現在のお茶の水橋たもとに女子師範学校を設置する旨布達が発令、日本最初の(官立)女子師範学校である東京女子師範学校の設立となった(11月に開校)。 設立当時の東京女子師範には、1872年(明治5年)に設立・開校された日本初の女子中等教育機関である東京女学校から相当数の生徒が女子師範予科へと転学しており、当時一般により高い教育・学問を求めていた女性の進学先として見なされていたことが知られる。当時の修業年限は5年で課程は10級に分けられ地理・歴史・物理学・化学大意・修身学・雑書・修辞・書取・作文・数学(算術・代数・幾何)・経済学・博物学・教育論・記簿法・養生書・手芸・画学・唱歌・体操・授業法・実地授業の学科目が講義された。官立師範学校は先行の東京・東京女子に続いて愛知・広島・新潟・大阪・長崎・宮城の6校が大学区制に対応して設立されたが、これら6校は西南戦争後の財政難により1877年(明治10年)から1878年(明治11年)にかけて廃止(代わりに各府県立師範学校・女子師範学校の設立が奨励された)されたため、東京女子師範は東京師範(のちの東京高師、筑波大学の前身)と並ぶ2官立師範学校の一方を占めることとなった。 1877年(明治10年)2月には附属幼稚園(お茶の水女子大学附属幼稚園の前身)、翌1878年(明治11年)6月には幼稚園保姆(保母)練習科がそれぞれ設置され、幼児保育・教育およびそれらを担う保母の育成が開始されることになった。さらに1877年2月には附属小学校(お茶の水女子大学附属小学校の前身)、1882年(明治15年)7月に附属高等女学校(お茶の水女子大学附属中学校・お茶の水女子大学附属高等学校の前身)が発足し、生徒の実地研修の場としての附属学校園の制度も順次整備されていった。とくに後者は、やはり西南戦争後の財政難で1877年(明治10年)2月に廃止された東京女学校を事実上継承したものであり、全国初の高等女学校として、その後各道府県に設置された旧制の女子中等教育機関のモデルケースとなった。 1883年(明治16年)の教則改正で東京女子師範は師範学校教則大綱中の「高等科」(小学校および中等学校の教員になるための学科)のみを教授することとなったが、財政難による全国各道府県の女子師範学校の(男子)師範学校への統合という流れのなかで1885年(明治18年)6月、東京師範学校に統合されてその「女子部」に改組された。この時東京女子師範の附属学校園も東京師範の附属学校に統合されることとなった(ただし附属高女のみはいったん本校から文部省直轄学校として一時独立する経緯をたどった)。
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