東京師範学校
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1872年5月(明治5年4月)、湯島聖堂(旧昌平坂学問所)の地に設置された文部省は学制公布(同年9月(旧暦8月))に先立ち、近代教育の担い手となるべき教員の育成を重視し正院に「小学教師教導場ヲ建立スルノ伺」を提出した。この「伺」が正院による認可を受けたことで同年7月4日(旧暦5月29日)、「師範学校」が東京府下に設立されることが決定され、同時に生徒募集が広く布達された。学制公布後の9月(旧暦7月末)に諸葛信澄を初代校長として開校された「師範学校」は、師範教育に詳しいアメリカ人教育者M・M・スコットを教員に招聘し、教員・教具すべてをアメリカから取り寄せたのみならず、アメリカの小学校の教授方法をそのまま導入して小学校教員の養成を進めた。この時期の「師範学校」は日本最初の(小学)教員養成機関として、将来全国に設立されるべき教員養成機関のモデルケースとしての役割を果たし、校内「編輯局」による全国の小学校で使用される新たな教科書の編纂、全国の小学校の教則の範例となるべき「小学教則」の編成などが行われた。また開校翌年の1873年(明治6年)7月に送り出された第1回の「師範学校」卒業生は、各府県の教員養成機関の訓導あるいは府県庁の学務担当吏員となって新たな教授法・教育課程を全国に普及させることに尽力した。また同時期に初めて設立された「練習小学校」(附属小学校)も、新しい教授法を実験・練習するための施設であると同時に、全国に設立されつつある小学校のモデル校ともなった(現在の筑波大学附属小学校の起源)。 1873年8月、東京以外の6大学区にも官立師範学校(大坂・宮城・愛知・広島・長崎・新潟)が設立されると、東京の「師範学校」は「東京師範学校」と改称、翌74年のスコット辞任後は原則として日本人教師が教授することとなった。次いで小学校に接続する中等学校教員の需要が必然化したため、1875年8月に文部省は同校に中等教員養成のための「中学師範学科」設置を布達。やがて1878年までに同校及び東京女子師範学校を除く官立師範学校6校が西南戦争に伴う財政難により廃校に追い込まれ、小学教員養成が府県立師範学校に担われるようになると、東京師範学校は次第に中等学校教員の養成機関へと変化していくこととなる。一方、1878年以降、師範教育研究のための米国留学から帰国した伊沢修二・高嶺秀夫らを中心に、ペスタロッチ主義に基づく教授法改革や学校設備・管理法の整備が実践的に進められ、1882-83年の府県から召募した「小学師範学科取調員」への講習や83年以降の「府県選挙師範生徒」募集制度を通じて、それらの全国的普及が企図された。1885年には東京女子師範学校(およびその附属学校園)を統合して「女子部」とし、東京師範学校は全国唯一の官立師範学校となるに至った。
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