東京師範学校とは? わかりやすく解説

東京師範学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 08:57 UTC 版)

東京高等師範学校」の記事における「東京師範学校」の解説

1872年5月明治5年4月)、湯島聖堂(旧昌平坂学問所)の地に設置され文部省学制公布同年9月旧暦8月))に先立ち近代教育担い手となるべき教員育成重視し正院に「小学教師教導場ヲ建立スルノ伺」を提出した。この「伺」が正院による認可受けたことで同年7月4日旧暦5月29日)、「師範学校」が東京府下に設立されることが決定され同時に生徒募集広く布達された。学制公布後の9月旧暦7月末)に諸葛信澄初代校長として開校された「師範学校」は、師範教育に詳しいアメリカ人教育者M・Mスコット教員招聘し、教員教具すべてをアメリカから取り寄せたのみならずアメリカ小学校教授方法そのまま導入して小学校教員養成進めた。この時期の「師範学校」は日本最初の(小学教員養成機関として、将来全国設立されるべき教員養成機関モデルケースとしての役割果たし校内編輯局」による全国小学校使用される新たな教科書編纂全国小学校教則範例となるべき「小学教則」の編成などが行われた。また開校翌年1873年明治6年7月送り出され第1回の「師範学校卒業生は、各府県教員養成機関訓導あるいは府県庁の学務担当吏員となって新たな教授法教育課程全国普及させることに尽力した。また同時期に初め設立された「練習小学校」(附属小学校)も、新し教授法実験練習するための施設であると同時に全国設立されつつある小学校モデルともなった現在の筑波大学附属小学校起源)。 1873年8月東京以外の6大学区にも官立師範学校大坂宮城愛知広島長崎新潟)が設立されると、東京の「師範学校」は「東京師範学校」と改称、翌74年スコット辞任後原則として日本人教師教授することとなった次いで小学校接続する中等学校教員需要必然化したため、1875年8月文部省同校中等教員養成のための「中学師範学科設置布達。やがて1878年までに同校及び東京女子師範学校を除く官立師範学校6校が西南戦争に伴う財政難により廃校追い込まれ小学教員養成府県立師学校担われるようになると、東京師範学校は次第中等学校教員養成機関へと変化していくこととなる。一方1878年以降師範教育研究のための米国留学から帰国した伊沢修二高嶺秀夫らを中心にペスタロッチ主義に基づく教授法改革学校設備管理法の整備実践的に進められ、1882-83年の府県から召募した「小学師範学科取調員」への講習83年以降の「府県選挙師範生徒募集制度通じて、それらの全国的普及企図された。1885年には東京女子師範学校(およびその附属学校園)を統合して女子部」とし、東京師範学校は全国唯一の官立師範学校となるに至った

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