東京帝大法学部長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/24 11:31 UTC 版)
1931年、満州事件がおきた。重遠は大学の法学部長を3回務めている(1930年-1933年、1936年-1937年、1939年-1942年)。小田村事件の処理に加え経済学部の内紛から起きた平賀粛学にも遭遇し、京都帝大の滝川幸辰事件、紀元二千六百年事業、新体制運動、学徒出陣などの難問があった。大村敦志は、重遠は、学問の自由は確保されねばならないが、そのために過激な行動は慎まなければいけないという立場に立っていると述べている。体制にコミットしない自由主義、反戦主義に与するものではないが、場合によっては戦争も辞さずという考えを持っていた。
※この「東京帝大法学部長」の解説は、「穂積重遠」の解説の一部です。
「東京帝大法学部長」を含む「穂積重遠」の記事については、「穂積重遠」の概要を参照ください。
- 東京帝大法学部長のページへのリンク