東京帝大文学部入学
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1924年(大正13年)1月、上京区岡崎西福ノ川町(現・左京区岡崎)の大西武二方に下宿を移し、卒業試験に備えた。浅見篤が訪ねると、原稿用紙が部屋中に散らばり、階下の便所に行かずに、ズックカバンの中に小便を溜めてぶら下げていたという。この頃、自分の鬱屈した内面を客観化して書こうとする傾向の草稿(習作「雪の日」「瀬山の話」「汽車――その他」や「過古」などに発展する)をいくつも試みていた。 2月、卒業試験終了後、基次郎は重病を装って人力車で教授宅を廻り、卒業を懇願した。3月、特別及第で卒業。結局5年がかりで三高を卒業した基次郎は、その足で夜汽車に乗って上京し、東京帝国大学文学部英文科に入学の手続きを済ませた(当時は倍率が低ければ無試験で入学可能であった)。同行した中谷孝雄と外村茂も、それぞれ独文科、経済学部経済学科を希望した。 3人は麻布市兵衛町の外村家別宅に泊り、同人雑誌を出すことを語り合い、銀座や神楽坂に繰り出した。中谷孝雄が先に帰郷した後も基次郎はそこに残り、中谷の三重県立一中時代の後輩の新進歌人・稲森宗太郎(早稲田大学国文科)を訪ねたり、すでに東京帝国大学工学部電気科3年になる宇賀康や、東京に帰省していた浅見篤と遊び、東大赤門前のカフェーで客と喧嘩し2階から転落したりした。 京都に戻った基次郎は下宿を引き払った後、三高劇研究会の後輩らと飲み、武田麟太郎に愛用のズックカバンと登山靴をあげた。大阪の実家に帰ると、東京での生活費は自分で稼ぐように通告された。 4月、雑誌『中央公論』に掲載された佐藤春夫の「『風流』論」を読み、自我を追究する近代小説よりも自然と一体化する瞬間の美を描くボードレールや松尾芭蕉の作品を賞揚する佐藤春夫の姿勢に共鳴した。この頃、トルストイの『アンナ・カレーニナ』や若山牧水の『山櫻の歌』も読んだ。 上京した基次郎は数日間、本郷区追分町の矢野潔の下宿に泊った後、本郷区本郷3丁目18番地(現・文京区本郷2丁目39番13号)の蓋平館支店に下宿を決めた。前年の関東大震災で東大の赤レンガも壊れたままのところもあったが、下宿先の町は被害が少ない地域であった。三高の入学式の檀上では、卒業試験後の人力車の挿話を伝え聞いていた森校長が、卒業生の基次郎のことを、病気を親に隠し猛勉強した親孝行者として新入生に紹介した。 先に帝大文学部に進んでいた飯島正、大宅壮一、浅野晃が第七次『新思潮』創刊を計画していたことに刺激された基次郎と中谷孝雄、外村茂は、自分たちも同人誌を作ろうと具体的計画を練り、5月に、三高出身の小林馨(仏文科)と忽那吉之助(独文科)や、稲森宗太郎(早大)を仲間に加えて、誌名の仮称を三高時代によく通った「カフェ・レーヴン」から「鴉」とした。これはエドガー・アラン・ポーの詩に「大鴉」があったことも由来する。だが基次郎はこの「鴉」という名称に不満を持っていた。 6人は5月初旬に、本郷4丁目の食料品店「青木堂」の2階にある喫茶店で第1回同人会を開き、創刊を秋にすることして具体的な日取りを進めた。6月に大宅壮一らの第七次『新思潮』が創刊され、巷の文学青年たちの間で同人誌を創刊する気運が高まっていた。この頃、基次郎は草稿「夕凪橋の狸」「貧しい生活より」を書いたと推定されている。月末、異母妹・八重子の危篤の報を受け、基次郎は大阪の実家へ駆けつけた。基次郎はこの幼い異母妹をとても可愛がっていた。
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