三高時代
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1923年(大正12年)4月、第三高等学校文科甲類(英語必修)に進んだ麟太郎は、ある日学生掲示場の横で、蝦蟇のような顔でズックカバンを肩にかけている目立つ男が気になった。誰かと人に訊くと、落第を2度した「三高の主」「古狸」と呼ばれる男として有名な梶井基次郎(理科甲類)だった。 クラスで一番背の低い麟太郎は高下駄を履き、運動神経のなさなどの劣等感から虚勢をはって弊衣破帽の無頼の恰好で次第に学内で目立つようになった。創作した短編も大阪今日新聞などに投稿し、若山牧水や佐藤春夫を読み、田山花袋の随筆を通じて井原西鶴を知り、永井荷風を愛読した。ある日、3年の中谷孝雄から劇研究会の回覧同人誌『嶽水会雑誌』への寄稿を依頼された麟太郎は、以前に書いた「銅貨」を6月に投稿した。 その後、麟太郎はグラウンドを歩いている時、同誌に作品投稿していた劇研の梶井基次郎から突然話しかけられて自作「矛盾の様な真実」の感想などを求められ戸惑った。今度君がいいものをきっと書いてくれと梶井から丁寧に言われて麟太郎は恐縮した。次第に梶井と親しくなった麟太郎は、梶井が卒業する時には愛用の肩掛けズックカバンをもらい受けた 麟太郎は、梶井がいた三高劇研究会に入会し、土井逸雄、清水真澄、浅見篤(浅見淵の弟)、楢本盟夫らと同人誌『真昼』を発行し、身辺観察的な短い文章を寄稿した。この誌名は、横光利一の『頭ならびに腹』の書き出しの「真昼である。特別急行列車は…」にちなんで付けられた。
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