第2号以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 07:53 UTC 版)
同人5名となって1925年(大正14年)2月20日に発行した『青空』第2号(第1巻第2号)には、忽那吉之助、外村茂、中谷孝雄、梶井基次郎が作品を持ち寄り、梶井は「城のある町にて」を掲載した。 第3号から、印刷所を麻布区六本木町5番地の秀巧舎に変更した。岐阜刑務所作業所は安く上がったが、遠距離で連絡の不便もあり、摩滅した活字が使用され、誤植も多いことから止めた。この第3号に作品を発表したのは、忽那と外村だけで、価格は15銭にした。 5月には、三高劇研究会の後輩たちが同人誌『真昼』を発刊した。『真昼』同人には、武田麟太郎、浅見篤、土井逸雄、楢本盟夫、清水真澄らがいた。6月発行の第4号からは、第三高等学校を卒業して東京帝国大学にやって来た浅沼喜実(法学部)と淀野隆三(文学部仏文科)が同人参加した。 梶井は、淀野から三好達治(文学部仏文科)を紹介され、三好も勧誘したが、まだこの時に三好は同人にはならなかった。淀野は無名状態の『青空』をなんとかするため、やはり著名作家へ贈呈するべきと提案し、この号から文壇作家に雑誌を送付した。梶井、中谷、外村の3人は、たまたま「新しき村」から上京していた武者小路実篤にも、創刊号から4号までを直接献呈した。 また同時期、梶井の三高時代の友人・小山田嘉一(法学部卒後に住友銀行入社)が「檸檬」を読んで感動し、それを同じ法学部だった北川冬彦(文学部仏文科に再入学)に勧め、北川も賞讃していた。北川と梶井は三高時代にお互い「江戸カフェー」で顔見知りであった。梶井は小山田の家で北川に再会し、同人に誘うが、まだこの時、北川も参加しなかった。 11月発行の第9号からは、随筆欄「真素木」を設けた。これは三高劇研究会の回覧雑誌『真素木』に由来した名称である。この月、外村茂は『文藝時代』から文芸時評を依頼されて寄稿したが、名前を誤植されて「外村繁」と印刷された。外村はその後それを筆名とした。 12月には、伏見公会堂と大津の公会堂で『青空』文芸講演会を開くなど広報活動をするが、大津での聴衆は7名(内2人は『真昼』同人)だった。 翌年1926年(大正15年)4月には、梶井基次郎の麻布区飯倉片町(現・港区麻布台)の下宿近くに住んでいた島崎藤村宅に『青空』第15号を直接献呈した。同人たちは資金集めのため広告取りに励むが、無理がたたって持病の結核が進んだ梶井は湯ヶ島温泉で転地療養を決め、世帯持ちの中谷孝雄や外村茂も生活に追われて、なかなか雑誌経営に専心することもままならなくなった。 雑誌は経営難のため、三高劇研究会の同人誌『真昼』との合同が模索されたが、この計画も実現しなかった。新たな同人加入もあったが、同人費を払えなくなって脱退する者もあり、定期購読者も少なく購買数も伸び悩んだため、最終的には1927年(昭和2年)6月の第28号をもって終刊となった。社会背景的には、昭和金融恐慌もあった。
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