三高から帝大へ
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1910年10月から第三高等学校へ登校を始めた棚橋は、11月に入ると京都に尚志社の支舎を設けることを企図して、細田忠四郎や三沢満寿夫などの松本中学校出身で京都に住んでいた4名と黒谷に「由之舎」(京都尚志社)と名付けた家で共同生活を始めた。この京都尚志社には後に山名義鶴や塩川国助などが参加するようになる。1911年早春に山名義鶴に出会い、山名の誘いで演説稽古のグループ「縦横会」を結成した。参加者は棚橋のほか、岸井寿郎(のち労働運動家、岸井成格の父)・岸田幸雄(のち参議院議員、兵庫県知事)・末川博(のち立命館大学総長)・麻生久(のち労働運動家、社会大衆党書記長)・岡林次郎(のち福岡高等裁判所判事)・吉田三雄・行宗貞隆・大西文一・村田利之助・細渓勇三・神明萬里・平島等であった。この「縦横会」参加者とのつながりは、後に棚橋が労働運動家や政治家として活動するなかでも続くことになっていく。こうした「縦横会」の活動の一方で、棚橋と山名は三高運動部の秘密結社であった「バンド」に参加した。9月にこの「バンド」による軟派学生暴力制裁事件が起こり、麻生を中心とした「縦横会」は「バンド」排斥運動を展開した。この折に、棚橋と山名は縦横会メンバーに面罵され、この影響で一時他の縦横会員との意思疎通を欠くことになった。1913年1月、折田彦市の後任として三高校長となった酒井佐保の排斥運動が発生した。この排斥運動は、第一次護憲運動に三高の学生が呼応して京都における暴動に参加した嫌疑で川端警察署の刑事が寄宿舎で捜査を行い、被疑者を連行した事件を発端としており、この刑事の寄宿舎への侵入は学校側が刑事となれ合って刑事のほしいままにさせたとして、元々生徒側にあった酒井校長不信への考えもあって酒井校長への排斥運動へと至ったものであった。この排斥運動の中で、「縦横会」を中心として校長問責生徒大会を開催して、酒井校長もこれに出席した。酒井校長はこの大会において率直に学校側の過失を認め誠意を披瀝したこともあって排斥運動は沈静化へと向かった。この校長問責生徒大会の中心には棚橋も動いており、こうした大正政変の影響を受けた様々な活動を通じて徐々に自由主義・個人主義へと転向していくようになる。 7月に入り、棚橋は上京して東京帝大法科を受験し、合格した。法科には棚橋のほかに「縦横会」の同志である山名義鶴と麻生久も進むことになった。1914年、棚橋は下層階級の解放について吉野作造や安部磯雄を訪問して意見を問うたり、学友との議論をしたり、先輩を訪ねて意見を聴いたりした。これは、棚橋が三高卒業時までに抱いた下層階級の解放を目的とする政治団体の樹立と、大学改革という2つの目標を具現化させるためであった。しかし、当初は希望に燃え張り切っていたものの次第に希望を失い、「ただ習慣的に大学に通っているというだけ」になっていった。こうした中で、7月に棚橋は初めて落第を経験することになる。この衝撃から一時郷里の松本に帰り、過去の自分との訣別のために自由奔放な「野性的生活」を翌月まで送り、体力と気力の回復に努めた。1916年2月、吉野作造を訪問した棚橋・麻生・山名は、吉野から友愛会の話を聞いた。棚橋はそれまで将来の志望について決めかねていたが、友愛会の話に深い感銘を覚え、朧気ながらも友愛会入りを志すようになる。5月には政治家を志すことを決め、当時の棚橋の日記で次のように記述した。 俺は世間一般の学生のように、生活のために職業を得ることが唯一最大の目的であるということを、不動の前提として、疑念なしに受け入れることはできない。俺は地位職業の得ることは、自己の生存の意義を全うし人生の目的を達するための手段にすぎないと考える。だから我々は生活の手段としての職業を得る前に、人生の目的、生存の意義を考えこれを知ることが前提であると確信する。宇宙の一分子として生をうけた俺は、むつかしい理屈なしに、宇宙の大活動・大運営に合体合流すべきであると考える。宇宙は久遠の昔から、無窮の未来にわたって休むことなく活動している。宇宙は産む。殖やす。活動する。生々繁茂する。進化する。発展する。人類そのものも進化する。社会も前進する。これが宇宙の大運営の実態である。 しからば宇宙の一分子として生をうけた俺は、文句なしにこの宇宙の大運営に参加すべきである。宇宙、自然と歩調を合せて活動すべきである。田を作るもよし。書物を書くもよし。あらゆる生産に参加すべきである。宇宙、人類、生物の利益繁栄を図るべく害を除くべきである。人類を幸福にし不幸を除き、人類の精神を美にし純にし、彼らをして平和を楽しましむべきである。これがわが生存の目的ではないか。 宇宙の運営に参加するというが、いかなる部分に参加するのか。そこで職業の問題が起ってくる。俺はこの点については、漠然ながら社会・国家・民衆のために働こうと前から考えていた。 国家の隆盛と、社会の進歩発達と、人類の幸福とは、原則として一致する。人類は宇宙自然の中で最も霊妙なものであり、国家と社会とはその人類の構成組織としているものの中で、もっとも秀でたものである。国家社会の隆盛進歩は人類の幸福と一致してこそ意味がある。もし国家・社会の活動力が、社会・人類の不幸を惹起することになったら、これこそ大矛盾である。故に国家の活動力を常に社会・人類の発展を促し幸福をもたらすように行使することは、最も必要なことである。これこそ政治の原則でなければならない。 俺が政治家を志ざす根本の動機は、国家の活動力を、社会人類の幸福と発展のために奉仕せしめ、行使せしめるということである。大学卒業を一年後に控えて、具体的にどうすべきか。まだ漠然としている。 — 前掲棚橋書、p.73-75 政治家を志した棚橋は、暑中休暇を利用して松本へ帰郷した。そこで披雲会の後輩である青山善吉の相談を受けて、当時の松本中学校長であった本荘太一郎の排斥運動を展開することになった。これは小林有也の後任で校長に就任した本荘太一郎の教育方針についての反駁から起こった運動で、一時生徒側がストライキに及ぶ可能性まで進んだが、本荘が年度いっぱいで校長職を辞任することで決着をみた。 1917年2月、棚橋は吉野作造を訪問して自身の友愛会入りを相談した。棚橋は吉野が友愛会入りに賛成するものと考えていたが、吉野は友愛会入りに反対して労働者の法律顧問となるよう勧めた。しかし、棚橋は「自ら労働者となり、自分の周囲に同志を集め、それを拡大して団結を作る道を選びたい。」として、4月に鈴木文治と面会して友愛会員になった。6月に入ると安部磯雄、吉野作造、油谷治郎をそれぞれ訪問し、棚橋の友愛会入りに賛成の意見を受けた。安部磯雄から鈴木文治宛の紹介状をもらい、7月に鈴木文治を訪ねたが「財政上人を入れる余地なし」として断られた。ただ、棚橋も「このまま友愛会に入ることができても、法律の実際に通じないから、充分な活動は不可能だろう。むしろ一、二年弁護士でもやって法律の事務に通じてから友愛会に入る方がいいのではないか。」と考え、吉野作造に相談したところ司法官試補になることを勧められた。そこで棚橋は早速司法官試補の出願手続きを進めて内定を受けると共に、鈴木文治には将来の友愛会入りを約束した。こうして棚橋は、一旦司法官試補として歩みを進めることになった。
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