三高から帝大へとは? わかりやすく解説

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三高から帝大へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 02:57 UTC 版)

棚橋小虎」の記事における「三高から帝大へ」の解説

1910年10月から第三高等学校登校始めた棚橋は、11月に入ると京都に尚志社の支舎を設けることを企図して、細田四郎三沢満寿夫などの松本中学校出身京都住んでいた4名と黒谷に「由之舎」(京都尚志社)と名付けた家で共同生活始めた。この京都尚志社には後に山名義鶴塩川国助などが参加するうになる1911年早春山名義鶴出会い山名誘い演説稽古グループ縦横会」を結成した参加者棚橋のほか、岸井寿郎(のち労働運動家岸井成格の父)・岸田幸雄(のち参議院議員兵庫県知事)・末川博(のち立命館大学総長)・麻生久(のち労働運動家社会大衆党書記長)・岡林次郎(のち福岡高等裁判所判事)・吉田三雄・行宗貞隆・大西文一村田利之助・細渓勇三神明萬里平島であった。この「縦横会」参加者とのつながりは、後に棚橋労働運動家政治家として活動するなかでも続くことになっていく。こうした縦横会」の活動一方で棚橋山名三高運動部秘密結社であったバンド」に参加した9月にこの「バンド」による軟派学生暴力制裁事件起こり麻生中心とした「縦横会」は「バンド排斥運動展開した。この折に、棚橋山名縦横メンバー面罵され、この影響一時他の縦横会員との意思疎通を欠くことになった1913年1月折田彦市後任として三高校となった酒井佐保排斥運動発生した。この排斥運動は、第一次護憲運動三高学生呼応して京都における暴動参加した嫌疑川端警察署刑事寄宿舎捜査行い被疑者連行した事件発端としており、この刑事寄宿舎への侵入学校側刑事となれ合って刑事ほしいままにさせたとして、元々生徒側にあった酒井校長不信への考えもあって酒井校長への排斥運動へと至ったものであった。この排斥運動の中で、「縦横会」を中心として校長問責生徒大会開催して酒井校長もこれに出席した酒井校長はこの大会において率直に学校側過失認め誠意披瀝したこともあって排斥運動沈静化へと向かった。この校長問責生徒大会中心に棚橋動いており、こうした大正政変影響受けた様々な活動通じて徐々に自由主義個人主義へと転向していくようになる7月入り棚橋上京して東京帝大法科受験し合格した法科には棚橋のほかに「縦横会」の同志である山名義鶴麻生久も進むことになった1914年棚橋下層階級解放について吉野作造安部磯雄訪問して意見を問うたり、学友との議論をしたり、先輩訪ねて意見聴いたりした。これは、棚橋三高卒業時までに抱いた下層階級解放目的とする政治団体樹立と、大学改革という2つ目標具現化させるためであった。しかし、当初希望燃え張り切っていたもの次第希望失い、「ただ習慣的に大学通っているというだけ」になっていった。こうした中で、7月棚橋初め落第経験することになる。この衝撃から一時郷里松本帰り過去自分と訣別のために自由奔放な野性的生活」を翌月まで送り体力気力回復努めた1916年2月吉野作造訪問した棚橋麻生山名は、吉野から友愛会の話を聞いた棚橋それまで将来志望について決めかねていたが、友愛会の話に深い感銘覚え朧気ながらも友愛会入り志すうになる5月には政治家を志すことを決め当時棚橋日記次のように記述した。 俺は世間一般学生のように、生活のために職業を得ることが唯一最大目的であるということを、不動前提として、疑念なしに受け入れることはできない。俺は地位職業の得ることは、自己の生存意義全うし人生の目的達するための手にすぎない考える。だから我々は生活の手としての職業を得る前に人生の目的生存意義考えこれを知ることが前提であると確信する宇宙一分子として生をうけた俺は、むつかしい理屈なしに、宇宙大活動・大運営に合体合流すべきである考える。宇宙久遠の昔から、無窮未来わたって休むことなく活動している。宇宙は産む。殖やす。活動する生々繁茂する進化する発展する人類そのもの進化する社会前進する。これが宇宙大運営の実態である。 しからば宇宙一分子として生をうけた俺は、文句なしにこの宇宙大運営に参加すべきである宇宙自然と歩調合せて活動すべきである。田を作るもよし。書物を書くもよし。あらゆる生産参加すべきである宇宙人類生物利益繁栄を図るべく害を除くべきである。人類幸福にし不幸を除き人類精神美に純にし、彼らをして平和を楽しましむべきである。これがわが生存目的ではないか宇宙運営参加するというが、いかなる部分参加するのか。そこで職業問題起ってくる。俺はこの点については、漠然ながら社会国家民衆のために働こうと前から考えていた。 国家隆盛と、社会進歩発達と、人類の幸福とは、原則として一致する人類宇宙自然の中で最も霊妙なものであり、国家社会とはその人類の構成組織としているものの中で、もっとも秀でたのである国家社会隆盛進歩人類の幸福と一致してこそ意味がある。もし国家社会活動力が、社会・人類の不幸を惹起することになったら、これこそ大矛盾である。故に国家活動力を常に社会・人類の発展促し幸福をもたらすように行使することは、最も必要なことである。これこそ政治原則なければならない。 俺が政治家を志ざす根本動機は、国家活動力を、社会人類の幸福と発展のために奉仕せしめ、行使せしめるということである。大学卒業一年後控えて具体的にどうすべきか。まだ漠然としている。 — 前掲棚橋書、p.73-75 政治家志した棚橋は、暑中休暇利用して松本帰郷した。そこで披会の後輩である青山善吉相談受けて当時松本中学校であった本荘太一郎排斥運動展開することになった。これは小林有也後任校長就任した本荘太一郎教育方針についての反駁から起こった運動で、一時生徒側ストライキに及ぶ可能性まで進んだが、本荘が年度いっぱい校長職を辞任することで決着をみた。 1917年2月棚橋吉野作造訪問して自身友愛会入り相談した棚橋吉野友愛会入り賛成するものと考えていたが、吉野友愛会入り反対して労働者法律顧問となるよう勧めた。しかし、棚橋は「自ら労働者となり、自分周囲同志集め、それを拡大して団結作る道を選びたい。」として、4月鈴木文治面会して友愛会になった6月に入ると安部磯雄吉野作造、油谷治郎をそれぞれ訪問し棚橋友愛会入り賛成意見受けた安部磯雄から鈴木文治宛の紹介状をもらい、7月鈴木文治訪ねたが「財政上人入れ余地なし」として断られた。ただ、棚橋も「このまま友愛会に入ることができても、法律実際に通じないから、充分な活動不可能だろう。むしろ一、二弁護士もやって法律事務通じてから友愛会に入る方がいいのではないか。」と考え吉野作造相談したところ司法官試補になることを勧められた。そこで棚橋は早速司法官試補出願手続きを進めて内定を受けると共に鈴木文治には将来友愛会入り約束した。こうして棚橋は、一旦司法官試補として歩み進めることになった

※この「三高から帝大へ」の解説は、「棚橋小虎」の解説の一部です。
「三高から帝大へ」を含む「棚橋小虎」の記事については、「棚橋小虎」の概要を参照ください。

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