明治 - 昭和初期(戦前)
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「青森県」の記事における「明治 - 昭和初期(戦前)」の解説
明治元年9月23日(1868年11月7日) - 野辺地戦争。野辺地で弘前藩兵と盛岡藩兵・八戸藩兵とが交戦。 明治4年7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県。現在の青森県域には、旧藩を引き継いだ弘前県、黒石県、斗南県、七戸県、八戸県が成立。 明治4年(1871年)9月 - 弘前県、黒石県、斗南県、七戸県、八戸県、館県の合併により、弘前県が成立するが、その直後、県庁が弘前から青森に移ったことで、青森県と改称。陸軍歩兵第5連隊、青森に駐屯。 明治5年10月10日(1872年11月10日) - 福島郡など北海道側の県域(旧・館県 = たてけん)が開拓使に移管。 1875年(明治8年)4月 - 内務省勧業寮から県庁にリンゴ苗木3本配付。 1876年(明治9年)明治天皇巡幸。 5月 - 二戸郡を岩手県に移管して現在の県域が確定。 1886年(明治19年) - 亀ヶ岡遺跡で遮光器土偶が出土。 1889年(明治22年)4月1日 - 中津軽郡弘前が市制施行し、弘前市となる。 1891年(明治24年)1月 - 青森駅が開業(東北本線 上野駅-青森駅 全線開通)。 1896年(明治29年) - 陸軍第8師団が弘前に駐屯。 1898年(明治31年)4月1日 - 東津軽郡青森町が市制施行し、青森市となる。 1902年(明治35年)1月 - 八甲田雪中行軍遭難事件。歩兵第5連隊第2大隊210名が八甲田山で遭難。死者199名。 1908年(明治41年)3月 - 青函連絡船の運航が始まる。 1922年(大正11年)3月 - 「小湊のハクチョウおよびその渡来地」が天然記念物に指定(1952年3月に特別天然記念物に指定)。 1928年(昭和3年)4月 - 「十和田湖および奥入瀬渓流」が名勝および天然記念物に指定(1952年3月に特別名勝および天然記念物に指定)。 1929年(昭和4年)5月1日 - 三戸郡八戸町・小中野町・湊町・鮫村が合併・市制施行し、八戸市となる。 1930年(昭和5年)9月 - 米国までの太平洋横断機タコマ市号、三沢淋代海岸から出発するも東通村尻労に引き返す。 1931年(昭和6年)10月 -米国の太平洋横断機ミス・ビードル号、三沢淋代海岸から出発し米国ワシントン州ウェナッチに着陸。世界初の太平洋無着陸横断飛行。 1936年(昭和11年)2月 - 十和田国立公園(現:十和田八幡平国立公園)が設立。 1944年(昭和19年)6月 - 亀ヶ岡石器時代遺跡、国史跡に指定。 1945年(昭和20年)3月 - 赤石川で雪泥流が発生。鯵ヶ沢町大然地区で死者87名、流出家屋20棟。 7月 - 太平洋戦争下で青森大空襲、また八戸、三沢、大湊なども空襲を受ける。青函連絡船7隻沈没、青森大空襲での死傷者1769名。
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明治 - 昭和初期
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今日に至る学校行事としての「修学旅行の嚆矢」とされるのは、1886年(明治19年)2月、東京師範学校(日本初の官立教員養成機関)が11日間にわたって東京〜千葉県銚子間を徒歩で往復した「長途遠足」である。 「修学旅行」という名称の初出は、『東京茗溪会雑誌』第47号(1886年12月) 掲載の報告書「高等師範学校生徒第二回修学旅行概況」である。これは東京師範学校が高等師範学校に改称再編後の1886年8〜9月に、同校男子生徒が下野地方へ旅行した過程と成果をまとめたもので、「第二回」とは、2月の長途遠足を第一回と数えていることを示している。 1888年(明治21年)8月の「尋常師範学校設備準則」において、文部省は初めて「修学旅行」という名称及び実施基準を公式に定め、まずは府県の尋常師範学校を中心に長途遠足をモデルとした修学旅行が普及した。 その後、旧制の中等学校・高等女学校などにも広まり昭和時代に入って旧制高等小学校の宿泊を伴う修学旅行が許可されると、1943年(昭和18年)に戦局悪化によって禁止されるまで伊勢神宮・橿原神宮・厳島神社・金刀比羅宮といった「国家神道教育」に通じるところを中心に行われ、輸送手段としてはもっぱら鉄道が使われたので、乗客数の多い場合は列車への車両増結も見られたといわれる。
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明治 - 昭和初期
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「日本の学校制服」の記事における「明治 - 昭和初期」の解説
1879年(明治12年)、学習院で詰襟の制服が採用される。当初は制服は無かったが、生徒間で服装を競う風潮があったため制服が導入された。1885年(明治18年)、東京師範学校女子部で洋装が導入される。1886年(明治19年)、帝国大学で金ボタンのついた詰襟の制服が採用される。明治30年代には女学生は海老茶色のスカート状の袴の着用が定着し、海老茶式部と呼ばれた。1920年(大正9年)、平安高等女学校(現:平安女学院)でセーラー服が採用される。
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