明治新政府・陸軍少将
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明治2年(1869年)、鹿児島常備隊がつくられたとき、第一大隊の隊長となった。同年6月2日、前年の軍功により賞典禄200石を賜る。同年、6月17日版籍奉還の日の日付で、鹿児島から東京の大久保利通、吉井友実宛に、「忠義公のご意向は、県知事になるのは辞退して大山綱良に任せたい、ということで、藩主(藩知事)をそのまま県知事にするという中央の方針に反するむつかしい事態に、鹿児島ではなっている」という報告を書くなど、この時期、鹿児島と中央をつなぐ重要なパイプ役になっていた。 明治4年(1871年)、廃藩置県に備えて西郷隆盛が兵を率いて上京したとき、大隊を率いて随い、御親兵に編入された。 同年7月20日、兵部省出仕となり、28日、陸軍少将に任じられ、同時に従五位に叙せられた。同じく7月、利秋は函館に視察を命ぜられた。帰ってきてからは札幌に鎮台を設置する必要を上申した。これがのちの屯田兵設置の嚆矢となった。 明治5年(1872年)3月、鎮西鎮台(熊本鎮台)の司令長官に任命され、熊本に赴任した。 同年7月、前年に起こった宮古島島民遭難事件の結果、宮古島島民多数が台湾で虐殺されたとの報告が鹿児島に届き、鎮西鎮台鹿児島分営の樺山資紀少佐は、司令長官の利秋に報告するため、25日に鹿児島を出発して熊本に至ったが、あいにく利秋は広島分営に出張中だったため、単身上京し、この件について樺山が利秋と直接話したのは、11月になって利秋が上京したときだった。 同じく7月の廃藩置県の後、9月になって、これまで李氏朝鮮との外交を担当していて、鎮西鎮台管轄下にあった厳原県が、伊万里県に吸収されて消滅し、対朝鮮外交を外務省が担当するに伴い、草梁倭館接収の必要が生じた。利秋は、鎮西鎮台司令官として軍艦春日丸で倭館へ向かう外務大丞・花房義質につけて、鎮西鎮台対馬分営駐屯兵を送り出した。このとき春日丸には、花房に同行する陸軍中佐・北村重頼、同少佐・河村洋與、加えて偵察のため、陸軍大尉で利秋の従兄弟・別府晋介、後に評論新聞を創刊する利秋の友人・海老原穆(愛知県7等出仕、陸軍大尉兼陸軍大錄)が乗り組み、倭館に滞在した。 同年11月に徴兵令が発布されたときには、鎮西鎮台での経験から、批判的であったと言われる。 明治6年(1873年)4月、陸軍裁判所所長を兼任し、6月25日、正五位に叙せられた。同年10月、明治六年政変(俗にいう征韓論争)で西郷が下野するや、辞表を提出して帰郷した。
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