明治新政府・陸軍少将とは? わかりやすく解説

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明治新政府・陸軍少将

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:08 UTC 版)

桐野利秋」の記事における「明治新政府・陸軍少将」の解説

明治2年1869年)、鹿児島常備隊がつくられたとき、第一大隊隊長となった同年6月2日前年軍功により賞典禄200石を賜る同年6月17日版籍奉還の日の日付で、鹿児島から東京大久保利通吉井友実宛に、「忠義公のご意向は、県知事になるのは辞退して大山綱良任せたいということで、藩主藩知事)をそのまま県知事にするという中央の方針反すむつかしい事態に、鹿児島はなっている」という報告を書くなど、この時期鹿児島中央をつなぐ重要なパイプ役になっていた。 明治4年1871年)、廃藩置県備えて西郷隆盛が兵を率いて上京したとき、大隊率いて随い、御親兵編入された。 同年7月20日兵部省出仕となり、28日陸軍少将任じられ同時に従五位叙せられた。同じく7月、利秋は函館視察を命ぜられた。帰ってきてからは札幌鎮台設置する必要を上申した。これがのちの屯田兵設置嚆矢となった明治5年1872年3月鎮西鎮台熊本鎮台)の司令長官任命され熊本赴任した同年7月前年起こった宮古島島民遭難事件結果宮古島島民多数台湾虐殺されたとの報告鹿児島届き鎮西鎮台鹿児島分営樺山資紀少佐は、司令長官の利秋に報告するため、25日鹿児島出発して熊本至ったが、あいにく利秋は広島分営出張中だったため、単身上京し、この件について樺山が利秋と直接話したのは、11月になって利秋が上京したきだった同じく7月廃藩置県の後、9月になってこれまで李氏朝鮮との外交担当していて、鎮西鎮台管轄にあった厳原県が、伊万里県に吸収され消滅し、対朝鮮外交外務省担当するに伴い草梁倭館接収の必要が生じた。利秋は、鎮西鎮台司令官として軍艦春日丸倭館へ向かう外務大丞花房義質につけて鎮西鎮台対馬分営駐屯兵を送り出した。このとき春日丸には、花房同行する陸軍中佐北村重頼、同少佐河村洋與、加えて偵察のため、陸軍大尉で利秋の従兄弟別府晋介、後に評論新聞創刊する利秋の友人海老原穆愛知県7等出仕陸軍大尉陸軍大錄)が乗り組み倭館滞在した同年11月徴兵令発布されときには鎮西鎮台での経験から、批判的であったと言われる明治6年1873年4月陸軍裁判所所長兼任し6月25日正五位叙せられた。同年10月明治六年政変俗にいう征韓論争)で西郷下野するや、辞表提出して帰郷した

※この「明治新政府・陸軍少将」の解説は、「桐野利秋」の解説の一部です。
「明治新政府・陸軍少将」を含む「桐野利秋」の記事については、「桐野利秋」の概要を参照ください。

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