明治政府樹立後
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慶応4年(1868年)1月17日、茂勲は会計事務総督兼任となった。同年2月20日、会計事務局補兼任となるも5月20日、免職となった。 明治元年(1868年)、茂勲は明治新政府に恭順の意を示すため、徳川将軍からの偏諱を棄てて長勲(ながこと)に改名した。明治2年(1869年)正月24日、長訓の隠居により家督を継いだ。通称を安芸守に改めた。2月4日、参与に就任した。3月6日、従二位・中納言に任官した。また同日、議定に就任するが、5月17日に免職となる。6月17日に版籍奉還で知藩事となり、その後は藩政改革に努めた。9月26日、正二位に昇進する。 明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官され、東京へ移った。この時に百姓一揆(武一騒動)が起こっている。これは、長勲の治政に不満があったわけではなく、武家華族は明治3年(1870年)の太政官令により東京在住となったが、新体制の年貢増、外国人のキリスト教布教などの不安から前藩主長訓の東京移住を阻止しようとした、という性格の一揆であった。 明治5年(1872年)、日本最初の洋紙製造工場・有恒社(大正13年(1924年)に王子製紙に吸収合併)を設立、明治7年(1874年)稼動する。洋紙の生産には成功するが、生産当初は国内に洋紙の需要がなく赤字続きであった。しかし、長勲は日本の近代化により必ず洋紙の需要が増えるとし、そのまま経営を続けた。 明治11年(1878年)、長勲は私財を投じて一時閉鎖されていた広島藩校修道館を再興し、広島市流川町の泉邸(現在の縮景園)に浅野学校を開校した。明治14年(1881年)に校名を修道学校と改め、校長には藩校出身で海軍兵学校の教官であった山田十竹を抜擢した。その後、この学校は修道中学校・修道高等学校として現在まで続き、各界に多くの人材を輩出している。 明治政府の下で長勲は、明治14年(1881年)に元老院議官、同年に外国公使就任の命を受け、翌明治15年(1882年)にイタリア公使となり、同年に妻の綱姫を伴って渡欧した。長勲は横浜港から香港、シンガポールなどを経由してイタリアのナポリに到着した。この間、白人の支配を受けている香港やシンガポールのアジア人現地民、という植民地の実情を知る。ナポリにて妻と共にイタリア国王ウンベルト1世およびマルゲリータ王妃に拝謁、明治天皇からの国書を届けた。帰国時は勲章を受けている。その後、長勲はフランスやイギリスなど欧州各国を見聞し、産業や技術力をもって発展する列強各国を視察した。ロシアでは白夜を経験している。のち欧州を離れ、アメリカ合衆国を経由して帰国した。ニューヨーク滞在時は電車に乗車している。これらの経験により、のちに旧藩内の若者を数名、イギリスやフランスに留学させ、また養子の長道をもイギリスに留学させた。 明治17年(1884年)に宮内省華族局長官、明治23年(1890年)2月に貴族院議員に就任する。長勲もその間、明治17年(1884年)に侯爵となる。また、明治天皇の命により幼少期の昭和天皇の養育係を務めた。 明治19年(1886年)、養子としていた実弟の長道(妻は加賀金沢藩主前田斉泰の娘)が単身留学先イギリスのロンドンで死去した。21歳だった。このため、もう一人養子としていた長厚の実弟・長之(ながゆき、1864年 - 1947年)が浅野宗家の嫡子となる。 明治20年(1887年)、相馬事件の渦中にあった相馬家の後見人となる。 上記の製紙会社以外にも長勲は明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布の日に創刊された新聞『日本』に出資する。さらに、華族銀行と呼ばれた十五銀行の大株主の1人でもあり、明治26年(1893年)に取締役、明治28年(1895年)に頭取となった。 昭和11年(1936年)の二・二六事件の際には事件を起こした青年将校らの助命願いに田中光顕と動いたが、叶わなかった。 昭和12年(1937年)2月1日、長勲は94歳の長寿をもって死去した。養子の長之が長勲の跡を継いだがその10年後に亡くなり、その後は長武、長愛、長孝と続いている。 昭和15年(1940年)饒津神社に祀られた。以来毎年2月1日・長勲公御例祭を斎行している。
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