明治政府出仕
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1869年 大隈重信の説得で民部省の租税正(現在の主税局長相当)になる。改正局を設置、その掛長を兼任。
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明治政府出仕
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明治元年(1868年)に帰国。帰国後に明治政府に出仕し、横須賀製鉄所担当権大丞となった。鉄道技師長のエドモンド・モレルの提案を受けて伊藤博文とともに明治3年(1870年)工部省の設立に勤めた。 明治4年(1871年)、工部省が10寮1司体制で始動すると、岩倉使節団副使として外遊する工部大輔の伊藤博文に代わり工部省をまとめあげるとともに、工学寮と測量司の長に就任。日本最初の実務技術者養成機関である工学校の創設に尽力し、この工学校は1877年に工部大学校と改められ、のちの東京大学工学部の前身となった。工部権大丞・工部少輔、工部大輔を経て、1880年工部卿に就任するなど、工学関連の重職を任された。 また、参事院議官、参事院副議長も務めた。1885年に新たに創設された法制局の初代長官、宮中顧問官も務めている。1887年5月24日に子爵となる。
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