明治政府へ出仕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:43 UTC 版)
慶応4年(明治元年、1868年)に戊辰戦争が開始、それに伴い1月に江戸幕府の長崎奉行河津祐邦が現地から脱走すると、海援隊を率いて長崎奉行所を接収、長崎に赴任して来た長崎裁判所総督澤宣嘉と参謀井上馨の推薦で参謀助役に任命、空白地帯の長崎取り締まりを任された。長崎で隠れキリシタン裁判(浦上四番崩れ)と土佐藩が起こしたフランス軍水兵殺傷事件(堺事件)に関わった後富岡県知事・天草県知事を務め刑法官に出仕、明治2年(1869年)に発生した横井小楠暗殺事件の取調べや東京奠都の明治天皇迎え入れ、戊辰戦争で敗れた榎本武揚ら戦犯の処分も引き受けた。同年に刑法官副知事となり、翌明治3年(1870年)12月20日に鶴田皓・津田真道・水本成美・邨岡良弼らと協力して刑法の新律綱領制定を果たした。その功績により参議、翌明治4年(1871年)に司法大輔に昇進、11月からは岩倉使節団の一員(理事官)として平賀義質・岡内重俊を連れて欧米各国の司法制度調査のため各国を巡る。 旅行中はアメリカ訪問前に乗っていた蒸気船「アメリカ(英語版)」号で団員達の野蛮な振る舞いに眉を顰め、到着後は大使岩倉具視が和装から洋装に着替えたことを軽率と考え、外国通の副使伊藤博文の有頂天な振る舞いを日記に書いて憤慨している。一方、自分達他の団員も社交界に出る必要性から洋服に着替えたが、慣れない服に戸惑い「不恰好」「窮屈」と日記に記し、表面上の文明開化を批判し、日本固有の制度・精神を保持しつつも西洋文明の取得を重視、改革の速度を緩やかにして混乱を最小限に留める漸進的な考えを持つようになっていった。 アメリカの後はイギリス、フランス、ドイツ、イタリアを歴訪して各裁判所を視察、明治6年(1873年)に使節団に先立ってインド洋経由で帰国(3月11日に横浜港へ到着)、政府への報告に急進的な改革を戒めた漸進論を主張した。また、このような考えから改革を推し進めた留守政府には批判的で、明治六年政変で同郷の後藤象二郎と板垣退助が下野しても政府に留まり、明治7年(1874年)7月から翌8年(1875年)4月まで左院副議長に在任(議長は伊地知正治)、大阪会議で左院が廃止されたことにより元老院議官を経験した。 明治9年(1876年)10月と翌10年(1877年)6月の2度に渡り土佐へ帰郷し、不平士族と板垣ら民権派の扇動を防ぐため、政府の命令を受けて中島信行と共に士族の説得に尽くし、同年10月に西南戦争の終結と土佐の鎮静化を見届け東京へ戻った。明治11年(1878年)は地方議会整備に尽力したが、明治天皇の教育を担当する侍補・元田永孚と岩倉具視の協議で3月5日に一等侍補に就任、天皇の側近として精神的成長と政治意欲の向上を促し、「天皇親政運動」に大きく動いていくことになる。
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