明治政府による禁教令と政教分離
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「禁教令」の記事における「明治政府による禁教令と政教分離」の解説
明治政府は大政奉還(五箇条の御誓文)を出した翌日の明治元年3月15日(慶応4年、1868年4月7日)、5枚の高札により「五榜の掲示」を出した。ここでは、いくつかの江戸幕府の政策を継承することが記されており、その第三項に「切支丹邪宗門厳禁」として江戸幕府からの政策を継承する形で禁教令を出した。これに依拠して前年の「浦上四番崩れ」への対処も信徒の弾圧として続くことになり、信徒を流罪とし、さらに流刑先では拷問や私刑が横行した。 ただ、明治政府のこの対応は公的な布告として使われた高札も幕府から政府に権勢が移ったことを示したにすぎなかったが、五箇条の御誓文で国際法を守ることを謳いつつ、高札ではそれに反するキリスト教の禁止を謳っていたため、英国公使パークスを始め、列強の反発を招いた(高札制そのものについても反発があったとされる)。 政府の外交顧問を務めていたシャルル・ド・モンブランは、明治2年(1869年)10月に「宗教政策に関する意見書」を提出し、日本が列強諸国からの信教の自由に関する内政干渉を避けるには、少しずつ政教分離政策をとるのが良策であるが、当面の間は黙許するのが良いだろう、と進言した。政府はこの策を採用し、明治6年(1873年)までに制度としての高札の廃止と同時に、これらの各条が事実上廃止され、キリスト教は当面黙認されることとなった。 攘夷論者の中にも、例えば福沢諭吉のように、キリスト教徒の内村鑑三から「宗教の大敵」と批判されながらも、『宗教の必用なるを論ず』(明治9年、1876年)、「宗教は経世の要具なり」(『時事新報』社説、1897年7月24日)などから、後世に彼の持論は単なるキリスト教排斥論者ではなかったとする研究もある 一方で、尊皇に基づく国体維持のための国家神道を進めるべく、明治15年(1882年)には神道から祭祀と宗教を分離し「祭祀を行うだけの神道は宗教ではない」という解釈を、その後明治22年(1889年)に制定された大日本帝国憲法は28条に信教の自由を保障する規定を設け、条文に「安寧秩序ヲ妨ケス」場合に「公共の福祉#一元的外在制約説」にもとづいて排斥できる、という解釈を生み、政治からは手段としても実質神道以外の宗教をほぼ排除した。なお、政府は、1911年に、無政府主義者である幸徳秋水を大逆事件で処刑しているが、その一方で、幸徳の反キリスト教の意識が政府の見解に合致していたため、幸徳の遺作である『基督抹殺論』の刊行を認めている。 明治政府として、キリスト教の活動を公式に認めるのは、明治32年(1899年)の「神仏道以外の宣教宣布並堂宇会堂に関する規定」(内閣省令第41号、7月27日付)によってである。しかし、ほぼ同時に「一般ノ教育ヲシテ宗教ノ外二特立セシムル件」(文部省訓令第12号、8月3日付)によって、私立学校の教育課程における宗教教育、および学校において宗教的儀式等を行うことを禁止しているなど、教育に関しては慎重な態度が続くことになった。 ウィキソースに一般ノ教育ヲシテ宗教ノ外二特立セシムル件の原文があります。
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