明治政府の対応
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明治4年(1871年)に明治政府が藩札の発行状況を調べたところ、全国の藩の約8割に当たる244藩、14の代官所、9の旗本領が紙幣の発行を行っていた。江戸後期頃までは西日本を中心とした銀遣い経済下の諸藩の発行が中心であったが、幕末の混乱によって幕府の強力な統制が減退・消滅し、諸藩は混乱に伴う財政危機を紙幣発行により賄おうとした結果、関東諸藩を中心に新規に発行する藩が続出したためである。明治政府は同年の廃藩置県の機に藩札回収令を発布し、各藩札を新貨幣単位(圓、銭、厘)により価額査定し、実交換相場による藩札回収を始めた。5銭以上と査定されたものは「新紙幣」(明治通宝)と、5銭未満のものは新貨(5銭銀貨等)と交換されることとなったが、新貨鋳造が間に合わなかったため、旧藩札に新価額を押捺して流通させた。この新価額スタンプ(大蔵省印)は1厘から3銭台までは1厘刻みで全て存在し、4銭台も1厘刻みだが4銭1厘・4銭7厘・4銭9厘が欠けているので、総計46種となっている。なお1枚の価額が1厘未満と査定されたものも存在し、基本的には2枚で1厘、3枚で1厘など、種類によって定められた枚数で1厘とされ、最小で「23枚で1厘」のものがある。また計算上の価額が8毛台や9毛台など1厘に少し足りないものは単純に「1厘」とされず「2枚で2厘」とされた。これら1厘未満のものは押印されずまとめて交換された。明治7年(1874年)には新貨幣の鋳造が進みようやく交換が開始され、最終的に処理を完了したのは5年後の明治12年(1879年)6月であった。 廃藩置県後、新通貨が整備されて普及するまでは、太政官札・民部省札などといった藩札類似の政府紙幣、旧幕府領に設置された府県のいくつかが発行した札、新政府が各地の商業中心地に開設させた為替会社や通商会社が発行した札などと並び、藩札に円銭厘の単位を示した大蔵省印が加印された藩札が、新貨交換比率が設定された寛永通寶銭などの銭貨と共に使用された。
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明治政府の対応
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明治政府首脳陣の伊藤博文や陸奥宗光が頭を悩ませたのは、事件そのものの有無と実際の差よりも当時進行中であったアメリカとの不平等条約改正交渉への影響で、アメリカで躓けば他国との条約交渉にも影響を与えかねなかったことだった。事件の報道後、アメリカやロシアの駐日公使が陸奥を訪ね善後策を問い質し、アメリカの上院では調印された日米新条約の批准に反対する声が少し上がり始めた。明治政府は事前の清国の実情から勝つのは確実だとして、圧倒的に勝った時に起こる日本に批判的な国際世論対策を戦争当初から想定しており、陸奥宗光と各国公使も外国の新聞の報道を報告していた。日本についての情報対応は明治政府に雇われていた欧米人が担っていたのであるが、旅順での事件の対応についても日本はマスコミ対策を積極的に活用しようとした。欧州における対外情報収集活動を担ったのは、青木周蔵公使とお雇い外国人のシーボルトであったとされる。『タイムズ』の報道以後、日本政府は情報収集に努めつつ、報道に対し逐一反駁を行い、反論に努めた。口火をきった『タイムズ』の報道に対し、11月29日付けの『セントラル・ニュース』(Central News)は正当な戦闘以外での殺傷はなかったと報道した。これも陸奥の意を受けた内田康哉(駐英臨時代理公使)が工作した結果であったと推測している。 しかし、当初はマスコミ対策は功を奏せず、アメリカの新聞の中には不平等な条約改正延期もやむなしという論調が出てくる。これに対し、伊藤博文は政府として正式な弁明をすることを以下の通り決定した。 清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡 旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を脱いだ兵士であった 住民は交戦前に逃亡していた。 逃亡しなかった者は、清から交戦するよう命令されていた。 日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、それを見知った者が激高した。 日本側は軍紀を守っていた。 クリールマン以外の外国人記者達は、彼の報道内容に驚いている。 旅順が陥落した際捕らえた清兵の捕虜355名は丁重に扱われ、二三日のうちに東京へ連れてこられることになっている。 この伊藤らが作成した弁明書は、第七項を省いたものが12月の17日・18日の両日にアメリカの各新聞に掲載された。陸奥が直接アメリカの新聞に弁明するというやり方は、アメリカ側から好感を以て迎えられた。一方の疑惑がかかった第二軍への処分であるが、やはり海外マスコミ対策に動いていた伊東巳代治が井上馨に書き送ったものには「戦捷の後とて何となく逡巡の色相見え候」とあるように、難攻不落と見られていた旅順を落とし意気軒昂な軍隊をこの事件で処分することは不可能と政府首脳は判断した。伊藤博文も「取糺すことは危険多くして不得策なれば此儘不問に付し専ら弁護の方便を執るの外なきが如し」との断を下している。結果、欧米諸国は自国の過去の疑惑と比較して非難を継続することに自国に逆に跳ね返ってくる恐れがあり、予測を覆して清国を圧倒するなど着実に国力を高めてきている日本批判に国益はないとして騒動は収まった。
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