明治政府の官僚とは? わかりやすく解説

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明治政府の官僚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 13:57 UTC 版)

井上毅」の記事における「明治政府の官僚」の解説

明治3年1870年9月貢進生として大学南校で学ぶ。ここで教員見習に当たる少舎長に就任12月に中舎長に昇進したが、翌明治4年1871年2月辞職12月明治政府司法省仕官しフランス語ができたため司法卿江藤新平随行する西欧使節団(8人)の一員として明治5年9月横浜から出航して渡欧江藤加わらず)、フランス中心に司法制度調査研究行った。ドイツ・ベルリンでは法学会で自然法論対抗して勃興した歴史法学重視し民法作成ローマ法ナポレオン法典採用する拙速行為反対する歴史法学学んで日本固有の文化習慣・法律の保持考えるようになり、ナポレオン法典翻訳による民法制定企画していた江藤思想の上決別した。 翌6年1873年9月6日帰国10月明治六年政変江藤下野した後は大久保利通登用され明治7年1874年2月佐賀の乱鎮圧向かった大久保同行してかつての上司だった江藤処刑見届け同年5月台湾出兵片付けるため8月に清へ渡った大久保随行、清の交渉文書作成任された。明治8年1875年)にヨーロッパで学習元にした『王国建国法』を訳出、翌明治9年1876年)に岩倉具視から憲法制定諮問に応じて意見提出外国憲法聖徳太子十七条憲法貞永式目などとは君主法的制限有無異なると性質違い挙げ憲法制定議会開設同一に捉えて時勢変化自覚促す内容書き記した明治10年1877年1月太政官大書記官就任西南戦争勃発する伊藤博文随行員として京都移った政府向かい3月山田顕義指揮する別働第二旅団属することを命じられ神戸港を船で出航始め長崎次いで八代上陸し募兵と軍の監督努めた4月別働隊熊本城解放してからは京都戻り先に東京へ引き上げた政府残務処理を行った後の8月東京へ帰還した。翌明治11年1878年)の大久保暗殺後岩倉具視ブレーンとして活躍する一方伊藤求めにも応じてしばしば彼の意見書作成手を貸していた。 明治13年1880年2月から伊藤井上馨黒田清隆始めとする各参議憲法国会開設実現方法記した意見書政府提出した時、11月伊藤話し合った末に作られ意見書国会開設時期尚早とし、漸進的な発展主とする内容まとまり12月上奏された。また、同年4月12月琉球処分を巡る清との交渉に出かけた伊藤随行したりしている。 明治9年1876年)に記した憲法意見控』では、これから制定する憲法十七条憲法とは異なるものとし、欧米諸国法制度だけを問題視していたが、後に小野梓の『国憲汎論』に触発され政治のための国典研究必要性目覚め国文学者小中村清矩落合直文増田于信らと交わり小中村義象助手として、『古事記』『日本書紀』以下の六国史、『令義解』、『古語拾遺』、『万葉集』、『類聚国史』、『延喜式』、『職原鈔』、『大日本史』、『新論』などを研究する

※この「明治政府の官僚」の解説は、「井上毅」の解説の一部です。
「明治政府の官僚」を含む「井上毅」の記事については、「井上毅」の概要を参照ください。

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