明治政府と法典継受
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 22:57 UTC 版)
詳細は「日本近代法制史」および「大日本帝国憲法」を参照 日本の法典編纂は、明治維新後日本が近代化を成し遂げるため、西洋の法律の継受の歴史であり、前近代とのつながりとの断絶であった。今日の日本の法学において、前近代の日本の法が顧みられることはほとんど無いといっても過言ではない状態である。 当初、明治政府はイギリス法などの導入を考えたが、判例法であることから継受が難しいと判断し、制定法である大陸法を中心に継受することになった。特に、時を同じくして急速な近代化を進めていたドイツ帝国(プロイセン王国)の影響を受けた。特に刑法では顕著である。また、フランス法についても民法などを中心に若干の影響を受けている。大日本帝国憲法はプロイセン憲法の影響を強く受けていたが、戦後の日本国憲法の制定により、影響は弱められた。 大日本帝国憲法は、天皇に対する強大な君主権を規定した。加えて、「幕府」のように、実際に権力を行使し、かつ、権力を集中させた政体を排除することと、また、政党に対抗するための超然主義の観点から、実質的には権力の分立が進められ、帝国議会が立法権、内閣が行政権、大審院が司法権を担った。 一方で、議会や内閣による軍の私物化を防ぐために、天皇が軍の統帥権を持ち、議会や内閣などが直接これに関与できない一方で、軍人勅諭や大日本帝国憲法第32条、治安警察法などに基づき、現役の軍人の政治への関与が制限された。(だが、統帥権の規定は、昭和戦前期に解釈がゆがめられ、軍部の暴走を正当化するために悪用されることになった。) 権利の規定は、行政権による恣意的な権利の制限を防ぐために、帝国議会が定めた法律に基づくことを必要とした。 司法制度においては、大審院が最上級裁判所の役割を担ったが、司法省が司法行政権を握っており、違憲立法審査権は有さなかった。また、大陸法にならって、行政裁判所が設けられて行政事件は通常裁判所が扱うことができなかった。 刑事裁判においては、ドイツ法の影響を強く受けていて、予審制度がとられ、糾問的裁判が行われた。 民法においては、財産法についてはドイツ法、フランス法の影響をうけ、家族法の面では家制度を前提とする体系となっていた。
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