征討軍派遣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)
ウィキソースに熾仁親王ヲ鹿兒島縣逆徒征討總督ニ任スルノ勅語の原文があります。 大山綱良は山口県や兵庫県などの他県に西郷軍の宣伝文を届ける専使を長倉訒に命じる。長倉は2月10日に鹿児島を出たが、同年2月14日に福岡県久留米で逮捕される。 薩軍が熊本城下に着かないうちにすでに政府側は征討の詔を出し、薩軍の邀撃(ようげき)に動き出していた。薩軍が鹿児島を発したのが2月15日で、熊本城を包囲したのが21日。対して政府が征討の勅を出したのが2月19日であった。つまり薩軍が動き出してわずか4日で、熊本城を包囲する2日前だった。このことから明治政府の対応の速さの背景には電信などの近代的な通信網がすでに張り巡らされていたことが分かる。 熊本鎮台でも西郷たちが鹿児島を発した2月14日の夜、指揮官たちを招集しての作戦会議が行われ、全軍による熊本城籠城が決定される。会議に参加した小倉の歩兵第14連隊長(心得)乃木希典少佐にも部隊を率いて熊本城に入城する様指示が出され、乃木は17日夜に小倉に帰還、準備を開始している 明治政府は有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督(総司令官)に任じ、実質的総司令官になる参軍(副司令官)には山縣有朋陸軍中将と川村純義海軍中将を任命した。これは、カリスマ的指導者である西郷に対抗して権威のある貴種を旗印として用いるためと、どちらか一方を総司令官にせずに、同じ中将の2人を副官に据えることで陸軍と海軍の勢力争いを回避するためであった。 また、薩摩・長州の均衡をとって西郷の縁戚である川村を加えて薩摩出身者の動揺を防ぐ等の意も含まれていた。山縣有朋もかつて西郷の元で御親兵・陸軍省創設のために働いており、鹿児島私学校徒を激昂させた鹿児島スナイドル弾薬製造設備の搬出では薩摩閥の大山巌に協力するなど、薩摩閥内部の西郷vs大久保の争いに長州閥が便乗する構図となっていた。 当初、第1旅団(野津鎮雄少将)・第2旅団(三好重臣少将)・別働第1旅団(高島鞆之助大佐)・別働第2旅団(山田顕義少将)の外に川路利良少将兼大警視が率いる警視隊(後に別働第3旅団の主力)などが出動し、順次、他の旅団も出動した。中でも臨時徴募巡査で編成された新撰旅団は士族が中心の旅団で、その名称から新撰組が再編成されたと誤認されたりした(実際に元新撰組隊士も所属していた)。 台湾出兵時に西郷従道が装備したガトリング砲も九州へ送られるなど、徴兵で構成された政府軍は精強な薩摩士族相手に戦うために、相当な意気込みを見せたが、一番肝心な歩兵銃の弾薬調達でトラブルが発生していた。 開戦原因の一つとなった鹿児島属廠のスナイドル弾薬製造設備は、2月13日に大阪砲兵工廠に設置されたが、鹿児島から搬出した際に部品の不備や破損が生じていたため、稼働させるには修理と部品の追加購入が必要となった。また各鎮台から九州への本格的な動員が開始されると膨大な量の弾薬が必要となり、6,000発/日程度の生産数では焼け石に水の効果しかないことが明らかだったため、更なる増産が図られて弾丸用の鉛溶解炉や雷管製造所を併設した新工場が建設された。 スナイドル銃が陸海軍に制式採用されてから以降、その弾薬供給が鹿児島属廠に独占されていたため、重要拠点である東京・大阪の鎮台兵には、後装式ながら紙製薬莢を使うツンナール銃(ドライゼ銃)を装備した兵が多かったが、ツンナール銃とスナイドル銃は全く違う弾薬を使用していた。 補給の混乱を防ぐために、陸軍省は九州へ派遣される兵の装備をいったんスナイドル銃に統一させてから送り出していたが、動員規模が拡がるにつれて早くも3月にはスナイドル弾薬500万発の備蓄を使い果たして弾薬が欠乏した。この時期、九州では依然として激戦が続いており、更に1,800万発の調達が必要と見積もられていたこともあって、大量の弾薬在庫が残されていたツンナール銃を九州に送る案が検討され、実際に和歌山(旧紀州藩)の臨時召集部隊は藩兵時代から使い慣れたツンナール銃装備のまま九州へ派遣されたほか、大阪鎮台の医歩兵など後方部隊もツンナール銃を装備して派遣されていた。 この他にも、後に村田銃の開発で有名になった村田経芳が、旧幕府から引き継がれたシャスポー銃を、スナイドル銃とは別の金属薬莢を用いる弾薬用に改造しようと計画するなど、さらに補給を混乱させかねない事態が進行していた。 スナイドル弾薬の調達を担当した陸軍省の西郷従道と原田一道は、大量の弾薬を調達すべく、海軍省から弾薬製造設備を借り受けたり、外国商人から空薬莢500万個の購入を計画したり、あるいは清国から弾薬を借り受けたりと、前線で戦う兵士達の火力を支える弾薬調達に東奔西走した。
※この「征討軍派遣」の解説は、「西南戦争」の解説の一部です。
「征討軍派遣」を含む「西南戦争」の記事については、「西南戦争」の概要を参照ください。
- 征討軍派遣のページへのリンク