征討使の復活とは? わかりやすく解説

征討使の復活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:59 UTC 版)

日本の古代東北経営」の記事における「征討使の復活」の解説

伊治公呰麻呂反逆の報を受けた中央政府宝亀11年3月28日780年5月7日)に征討使任命人事おこない中納言藤原継縄征東大使大伴益立紀古佐美征討副使任命し、さらに判官主典各4人も任命した陸奥国から平城京までの情報伝達には7日程度要するため、反逆第一報受けてただちに将官任命したとみられる翌日には大伴真綱鎮守副将軍安倍家麻呂出羽鎮狄将軍任命するとともに、鎮狄使の軍監軍曹2人任命し、さらに征東副使大伴益立陸奥守兼任させている。律令では征討軍を率い将官征討使)として将軍副将軍軍監軍曹などを規定するが、征夷を行う征討使は鎮守府区別するために大使副使判官主典とも称される東北対す征討使の派遣天平9年737年以来43年ぶり、鎮狄将軍に限れば神亀元年724年以来56年ぶりの任命であった数万におよぶ坂東の軍士が動員されそれまで現地官人現地兵力主体とする征夷軍編成大きく転換させた。 征東大使藤原継縄陸奥国へと赴任しなかったようで、宝亀11年4月4日780年5月12日)に節刀授けられ大伴益立副使ながら征討軍における事実上最高指揮官として陸奥国へと赴任した。益立ら征東使同月下旬国府多賀城に入ると、5月8日6月14日)に征討実施計画光仁天皇奏上した。ついで6月8日7月14日)には百済俊哲が鎮守副将軍に、多治比宇美陸奥介任命された。鎮守副将軍陸奥介大伴真綱帯びていたもので、益立ら征東使調査多賀城失陥関わる真綱の責任追及され朝廷更迭求めたものと思われる6月29日8月4日)、光仁天皇は益立が期日過ぎて軍事行動開始できないこと叱責して直ち詳細報告求めた。 ところが宝亀11年9月23日780年10月25日)に藤原小黒麻呂持節征東大使任命され征討使の最高指揮権が益立より小黒麻呂に移る。同時に内蔵全成多犬養新たに副使とされ、副使は4人に増員されている。小黒麻呂征東使10月22日11月22日)、冬を目前にしているのに兵士の襖が不足していること、数万余の大軍支給する軍粮が準備できていなことから「今年征討すべからず」と征夷中止申し出る奏状送った光仁天皇10月29日11月29日)に征東使叱責したうえで軍事行動開始命じ今月中賊地攻め入らないであれば多賀城玉作城玉造柵)に防禦加え戦術を練るべきこと命じている。光仁天皇叱責受けた征東使11月に入ると反乱蝦夷来襲路を遮断するために2000人の軍兵鷲座楯座石沢大菅屋・柳沢五道封鎖した宝亀12年1月1日781年1月30日)、光仁天皇伊勢斎宮現れた美瑞祥により天応改元するとともに伊治公砦麻呂荷担した百姓が賊より離脱して投降した場合にはその罪を許して3年間の課役免除することを宣言した

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