征討使の復活
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伊治公呰麻呂反逆の報を受けた中央政府は宝亀11年3月28日(780年5月7日)に征討使任命の人事をおこない、中納言藤原継縄を征東大使、大伴益立と紀古佐美を征討副使に任命し、さらに判官と主典各4人も任命した。陸奥国から平城京までの情報伝達には7日程度を要するため、反逆の第一報を受けてただちに将官を任命したとみられる。翌日には大伴真綱を鎮守副将軍、安倍家麻呂を出羽鎮狄将軍に任命するとともに、鎮狄使の軍監と軍曹各2人を任命し、さらに征東副使大伴益立に陸奥守を兼任させている。律令では征討軍を率いる将官(征討使)として将軍・副将軍・軍監・軍曹などを規定するが、征夷を行う征討使は鎮守府と区別するために大使・副使・判官・主典とも称される。東北に対する征討使の派遣は天平9年(737年)以来43年ぶり、鎮狄将軍に限れば神亀元年(724年)以来56年ぶりの任命であった。数万におよぶ坂東の軍士が動員され、それまでの現地官人・現地兵力を主体とする征夷軍編成を大きく転換させた。 征東大使藤原継縄は陸奥国へと赴任しなかったようで、宝亀11年4月4日(780年5月12日)に節刀を授けられた大伴益立が副使ながら征討軍における事実上の最高指揮官として陸奥国へと赴任した。益立ら征東使は同月下旬に国府多賀城に入ると、5月8日(6月14日)に征討実施の計画を光仁天皇に奏上した。ついで6月8日(7月14日)には百済俊哲が鎮守副将軍に、多治比宇美が陸奥介に任命された。鎮守副将軍と陸奥介は大伴真綱が帯びていたもので、益立ら征東使の調査で多賀城失陥に関わる真綱の責任が追及されて朝廷に更迭を求めたものと思われる。6月29日(8月4日)、光仁天皇は益立が期日を過ぎても軍事行動を開始できないことを叱責して直ちに詳細の報告を求めた。 ところが宝亀11年9月23日(780年10月25日)に藤原小黒麻呂が持節征東大使に任命されて征討使の最高指揮権が益立より小黒麻呂に移る。同時に内蔵全成と多犬養が新たに副使とされ、副使は4人に増員されている。小黒麻呂ら征東使は10月22日(11月22日)、冬を目前にしているのに兵士の襖が不足していること、数万余の大軍に支給する軍粮が準備できていなことから「今年は征討すべからず」と征夷の中止を申し出る奏状を送った。光仁天皇は10月29日(11月29日)に征東使を叱責したうえで軍事行動の開始を命じ、今月中に賊地に攻め入らないのであれば多賀城と玉作城(玉造柵)に防禦を加え戦術を練るべきこと命じている。光仁天皇の叱責を受けた征東使は11月に入ると反乱蝦夷の来襲路を遮断するために2000人の軍兵で鷲座・楯座・石沢・大菅屋・柳沢の五道を封鎖した。 宝亀12年1月1日(781年1月30日)、光仁天皇は伊勢斎宮に現れた美雲の瑞祥により天応と改元するとともに、伊治公砦麻呂に荷担した百姓が賊より離脱して投降した場合にはその罪を許して3年間の課役を免除することを宣言した。
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