征遼故事についてとは? わかりやすく解説

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征遼故事について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 15:54 UTC 版)

水滸伝の成立史」の記事における「征遼故事について」の解説

二十本の第V部分田虎王慶征伐)については、当該部分含まれない百回本が存在する上、それぞれ切りの良い10回分ということや、その前後梁山泊軍増減がないことなどから、両者が後からの挿増であることは比較容易に結論できること前述した。しかし、田虎王慶征伐類似する説話である第IV部分すなわち遼国征伐についても、前半部分とは文体体裁がかなり異なっており、しかも梁山泊軍人物の増減がないことから、後から挿入され可能性がある。胡適魯迅孫楷第・鄭振鐸余嘉錫・厳敦易ら中国学者にはこの立場をとる者が多い。ただし、田虎王慶征伐異なり、征遼故事が挿増されていない状態の古本が見つかっていないこと、征遼故事第83回から第91回という分量的に中途半端なことなどから、これを否定する意見も多い。もし征遼故事が『水滸伝完成前に挿増されたものだとすればそれ以前は全92回だったことになる。5回をまとめて1巻とするなどの形式出版される章回小説92回という中途半端な回数考えづらい。鄭振鐸は征遼故事含まない92分の原・水滸伝』の存在想定し、郭武定侯が8回分の征遼故事挿入した主張し、厳敦易は元々100回分であった原・水滸伝』の全体改組して8回分を空け、征遼故事を間に挿入したとする。しかし、なぜ8回分と中途半端な分量なのかや、全体改組して新たな部分を挿増するほどの改変行ったにしては征遼故事部分出来良くないことなどから、首肯しがたい。 また第54回羅真人公孫勝に対して告げた予言で征遼故事示唆していること、征遼故事の後の第94回100回に征遼を回顧する文言があることなどから、前後から全く独立している田虎王慶征伐とは違い前後にも多少影響及ぼしていることがうかがえるそもそも二十本の発凡(前書き)に楊定見(もしくは無涯)が「郭武定本(百回本)が寇の中から王慶田虎削除して遼国を加えたのはまずいやり方だ」と書いてあることから、征遼故事が後から加えたという説が生まれたが、この発凡の文章自体第72回柴進宮廷睿思殿に潜入した際に書かれていた四大寇を三大寇に変えたことを言ったものであり、征遼故事そのものの挿増を意味するものではない。 はっきりしない征遼故事とは対照的に、第VI部分方臘征伐初めから水滸伝物語組み込まれていた。上に見たごとく『水滸伝』の成立以前の『宣和遺事』の段階で、すでに宋江梁山泊軍団の物語方臘征伐セットとなっていた。そこで宮崎市定は、方臘征伐後に梁山泊軍団を崩壊させるという構想実現するために、その直前に征遼故事用意されたとする説を唱えた具体的に公孫勝退場契機として用意されたという説である。梁山泊軍最強精鋭軍団であるが、その強さ最終的に担保するのは、入雲龍公孫勝が使う道術魔法)による攻撃である(特に征遼故事部分でそれは著しい)。公孫勝魔法ある限り方臘征伐梁山泊軍消耗することはあり得ない実際、征遼では108人中1人戦死者出ていない(方臘征伐では59人が戦死する)。これでは公孫勝がいる限り方臘戦後梁山泊軍崩壊する結末にはならない。ところが公孫勝は本来、至高道士羅真人弟子として修行中の身で、師匠から盟友たちに義理を果たす間だけ俗界下りることを許されていた立場であった。そのため、公孫勝一人円満に物語から退場させることを想定して彼に仲間への義理を果たさせる場として用意されたのが征遼という舞台であり、『水滸伝成立当初から方臘征伐セットだったという説である。実際に公孫勝が征遼戦後(百二十回本では田虎王慶征伐後)に梁山泊軍から去ったことで、その後の戦闘早くも初め戦死者陶宗旺宋万焦挺)が出る。高島俊男もこの見方支持し、やはり梁山泊軍不滅象徴であり、死にかけの者をも復活させる腕を持つ神医安道全が、方臘征伐序盤第94回徽宗皇帝ささいな疾患理由に都へ召還されたことが、方臘戦で死者続々と出るきっかけとなったことを指摘して、これを補強した。 これに対し佐竹靖彦は、史実方臘軍朝廷から邪教集団として捉えられていたことからヒント得て、それを元に物語化した段階方臘軍魔法使い鄭魔君包道乙など)が設定され、それに対抗する存在として公孫勝公孫勝宋江三十六人賛の段階ではメンバー含まれていない)という人物作り出されたものの、その存在意味に気づいた別の編者が、活躍場所を対方臘戦から遼国征伐移したとの説を採る。いっぽう中鉢雅量は、梁山泊軍敵城攻略する際に常套手段として用いる「敵の仲間偽装して城内入り込んで暴れ回り城中混乱乗じて城外からも攻め込む」という定番パターン(百回本では第59回第91回第93回第95回第98回などに見られ、特に方臘征伐の段に多い)が、征遼の段においては似たような機会ありながら全く用いられていないことに注目し、征遼故事前後非連続性を指摘したまた、小松謙高野陽子の研究では、各回終末現れる次回の展開は如何に」を意味する「怎地」という語彙第71回から第80回までの間に7回も使用されているのに比べ、征遼故事さしかかる第81回から第88回では、「怎生」(怎地とほぼ同義だが、他の箇所では見かけられない語)が3度現れることから、その前後部分成立過程異な可能性指摘している。いずれにしろ、征遼故事が無い中間形態古本現存していないため、『水滸伝成立のどの段階で征遼故事取り入れられたのかは現時点では確定できない

※この「征遼故事について」の解説は、「水滸伝の成立史」の解説の一部です。
「征遼故事について」を含む「水滸伝の成立史」の記事については、「水滸伝の成立史」の概要を参照ください。

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