征長軍解兵令
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 23:14 UTC 版)
12月27日、征長軍はついに解兵令を発し、長州征討は終了した。ただし九州五藩の軍兵は、五卿受領が終了するまで残留する事とした。 同日、高杉は吉富村の吉富藤兵衛へ、密書を持たせ密使を派遣した。密書には「井上聞多は拙者真の知己に御座候所 此節幽閉被候故 誠に以って遺憾之事に御座候 何卒して脱走致候手段共は無御座哉」とあり、負傷して俗論派に幽閉されていた井上聞多の奪還を依頼していた。さらに「少々金入用に御座候所 中々金を出し候者も少なく困窮仕候間 老兄(吉富)兼而之御忠誠之事 四五百両も御恵被下候」とあり、同時に献金を依頼していた。 クーデターの最中であり事態が切迫していた為か、高杉は密使に対し、もし吉富が怪しい素振りを見せたり協力を断った場合は即座に刺殺するよう命じていた。吉富はその場で協力を約束し献金に応じた。吉富はそれだけではなく自ら近隣の住民に呼びかけ、諸隊への直接参加の準備を始める。 同日、二卿が伊佐より功山寺へ帰還した。 12月28日、御楯隊が長府を引き払い、伊佐の諸隊の下へ向かった。先に哀願書を出した事から推定すると、太田市之進も藩政府に恭順したようである。これにより馬関の高杉ら遊撃隊はまったくの孤軍となる。この後、五卿の下へ長州藩より告別使として根来上総が来訪して拝謁し、渡海を促す。
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