明治政府御雇い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 06:44 UTC 版)
「トーマス・ウィリアム・キンダー」の記事における「明治政府御雇い」の解説
当時明治政府は近代的な貨幣制度の確立を目指していたが、駐日英国公使ハリー・パークスの勧めもあり、ジャーデン・マセソン商会の代理人であったトーマス・グラバーを介して交渉し、閉鎖された鋳貨局の造幣設備一式を6万両で購入・日本に移設した。キンダーも明治政府に雇用され1870年(明治3年)に来日、同年3月3日(明治3年2月2日)に造幣寮の首長に任命され、大阪造幣寮の建設・機械据え付けなどを指揮した。造幣寮の創業式は翌1871年4月4日(明治4年2月15日)であるが、それに先立つ1871年1月17日(明治3年11月27日)から銀貨製造が開始された。 キンダーの月俸1,045円は太政大臣三条実美の850円を上回るもので、高給と見られがちであるが英国植民地政府の技師長クラスの待遇と同程度。明治政府に雇われた外国人の中では最も知識と経験の豊かな技術者ではあったが、あくまで御雇い外国人であり、特に近代国家の基幹である通貨事業からはしだいに遠ざけられた。遠藤謹助をはじめとする職員のキンダー排斥の意見は吉田清成によって聞き入れられ、日英間で交渉が行われた。1875年(明治8年)、キンダーは他の外国人9名と共に解任されたが、日本を離れる際は丁重に見送られた。キンダーは日本にいた間に3回ないし4回、明治天皇に拝謁している。
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