大阪造幣寮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 21:02 UTC 版)
慶応4年(1868年)6月5日太政官により貨幣司に出仕し、6月20日工作方判事、明治2年(1869年)3月10日造幣寮機械方、9月12日造幣権允、明治8年(1875年)10月15日造幣中技監、明治10年(1877年)1月31日造幣少技師、明治13年(1880年)1月20日中技師、明治15年(1882年)6月13日大蔵三等技師を歴任した。造幣寮では構内銅細工所、轆轤所、鍛冶所で小型機器類の製作を指導した。 明治13年(1880年)4月息子規好がジュネーブ時計学校への留学、パテック・フィリップでの実習を卒え帰国すると、宮内省より2,500円を得て天満川崎村樋之口に時計工場を設立したが、間もなく閉鎖された。 明治19年(1886年)2月5日非職となり、10月5日小石川区水道町35番地長谷川皎方で病死し、10月6日正六位に叙された。
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