冶金技術指導と多様な活動
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「ウィリアム・ゴーランド」の記事における「冶金技術指導と多様な活動」の解説
ゴーランドは1872年10月8日、大阪造幣寮の化学兼冶金技師として着任した。造幣寮のお雇い外国人は通常3年契約であり、3年で帰国する者が多いなか、彼は16年もの長期間在職した。当初、化学兼冶金技師として、反射炉の築造、鎔銅作業を開始し、その技術を伝える。その後、造幣寮首長のキンドルの帰国した1878年2月には造幣局長官顧問を兼任し、さらにデイロンの帰国した1888年2月には試験方、鎔解所長を兼任する。また、陸軍の大阪製造所(大阪砲兵工廠の前身)の日本陸軍省冶金関係特別顧問にも任命され、イギリス式冶金技術の指導に当たった。さらに、彼の指導で銅精錬を学んだ花田信助は、造幣寮退官後、三菱の大阪精錬所でイギリス式反射炉を建設した。1881年、兵庫県多田村平野(現・川西市)の平野鉱泉から湧出する炭酸水を検査して飲用に好適と評価、のちこの鉱泉水は「平野水」として瓶詰販売され、後年の清涼飲料・三ツ矢サイダーに系譜が続いている。 以上のように、日本の近代産業の育成に大きな貢献をしたことから、明治新政府は、1879年、1882年とたびたび賞与金を支給してこれに報い、1883年11月3日には勲四等旭日小綬章が贈られた。公務の合間には、日本各地の古墳の調査、登山をはじめ、ボート漕法の指導、日本絵画の収集など精力的に活動した。 1888年10月31日に雇用期限満了となり、泉布観での送別会の後、同年11月24日イギリスへの帰国の途に着いた。帰国時には、功績が顕著であることをもって勲三等旭日中綬章が贈られるとともに、松方大蔵大臣より3000円の贈与があった。また、遠藤造幣局長より「足下此局を去ると雖(いえど)も足下の功績は此局と共に永遠に傅(つた)ふべきは本官の信して疑はさる所なり」云々の書を寄せられている。 彼は、専門の冶金学の分野において、日本の伝統的鋳造技術を研究し、帰国後の1915年に「古代日本の金属と金属工芸」と題して、弥生時代から明治初年までの採鉱冶金史を発表している。
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