廃藩置県後
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1879年の廃藩置県以後、庶民にも亀甲墓を造ることが許されるようになった。王朝時代、亀甲墓は士族のみに許された特権であったので、庶民には憧れの的であった。それゆえ、明治中期から大正・昭和初期にかけて、亀甲墓は数多く造られた。地方に造られた亀甲墓は、概ねこの時期のものである。 沖縄戦では、首里・那覇にあった多くの亀甲墓が甚大な被害を被った。さらに戦後の1951年、追い打ちをかけるように那覇の辻原墓地、若狭町の広大な墓地群が米軍の軍命により撤去・区画整理されてしまい、このとき亀甲墓を含む多くの墓が失われてしまった。両墓地の総墓数は1,700以上だったとされる。
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廃藩置県後
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廃藩置県後の1878年、東葛飾郡役所が松戸駅(鉄道駅ではなく宿駅)に置かれた。松戸地区には国・県の出先機関が置かれ、行政上の拠点都市の性格を持っている。1896年に日本鉄道により現在の常磐線(東京・田端駅 - 水戸駅間)が開通。 1943年に東葛飾郡松戸町・高木村・馬橋村が新設合併し、松戸市が発足。1954年には旧小金町の大半を編入した。
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廃藩置県後
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東京到着後、小川町の旧静岡藩邸や牛込戸山の旧尾張藩下屋敷を経て、1872年(明治5年)に赤坂福吉町の元人吉藩邸を3800両で購入し、そこで生活するようになった。赤坂屋敷の別棟には天璋院(13代将軍徳川家定夫人)、本寿院(家定実母)、実成院(14代将軍徳川家茂実母)も同居した。東京に移住した後も旧臣たちによる教育が続けられた。また河田熙、乙骨太郎乙の家塾や中村正直の同人社に通学した。 家達の赤坂屋敷は勝海舟の赤坂氷川町邸とは道路を分け隔てたすぐ近くであり、行き来が多かった。勝海舟と親しくしていたお雇い外国人ウィリアム・コグスウェル・ホイットニー一家の娘クララ(勝の三男梅太郎と結婚する)は日記の中で明治9年12月25日にクリスマスのお祝いでホイットニー家を訪問した家達について「14歳か15歳だが、非常に威厳のある風采の方で、とても色が黒く、濃い赤みがかった鷲鼻、細い目、小さい弓形の口をしておられる」という印象を書いている。家達はホイットニー家と夕食を共にし、クリスマスツリーを囲んで聖歌を歌ってクラッカーを鳴らし、子供同士でゲームをしたが、それについてクララは「徳川家の若殿もそれに元気よく加わって、必要なことはなんでも愛想よくなさり、罰則にもいやがらずに従っておられた」という印象を書いている。 翌年2月17日にはクララ母子が家達に招かれて赤坂福吉町の徳川邸を訪問したが、その時の邸内の様子についてクララは、大勢の使用人が家達の周りに侍っており、道の両側に並んだ使用人たちが深々とお辞儀することや、通された客間や庭園が大変立派であったことや、老婦人3人(天璋院、本寿院、実成院)が28人もの侍女を従えて住んでいることなどを書いている。 1877年(明治10年)には千駄ヶ谷に引っ越した。現在のJR千駄ケ谷駅の南側一帯に位置し、敷地面積10万坪を超える大敷地だった。家達が英国に留学した後の同年10月にこの敷地内に徳川公爵邸となる洋館が完成している。世間からは「千駄ヶ谷御殿」と呼ばれていた。この敷地と建物は1943年まで徳川公爵家によって使用され続けたが、同年に東京府が錬成道場として利用するために買収して「葵館」と名付けられ、その後木造建築物は除去、鉄筋コンクリートの洋館2棟は移築された後1956年に東京体育館が建設されて現在に至っている。
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廃藩置県後
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1879年(明治12)の沖縄県設置(琉球処分)により、旧那覇里主所(現東町郵便局近辺)に親見世役所が設置され、那覇四町の他に、久米村(久茂地村含む)・泊村の行政も併せて管轄した。翌年、親見世役所は那覇役所に改称された。那覇役所及び7ヵ村の役場は、「里主所前御余地」と呼ばれる、久茂地川沿いの材木等の荷物置き場(敷場)に建てられた長屋に置かれ、西・東・泉崎・若狭町・久茂地・久米・泊村の順に、一室ずつ割り当てられた。当時の役人は、机・椅子に、欹髻・大帯の琉装姿で、事務を行っていたという。
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