廃藩置県以後
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明治12年(1879年)、廃藩置県が断行され琉球王国(藩)は消滅したが、糸洲は失職せず、引き続き沖縄県庁に書記としてつとめたといわれる(廃藩置県の時に失職したとの説もある)。糸洲が県庁を退職したのは明治18年(1885年)、54歳の時であった。唐手の弟子を取り始めたのはこの頃からで、明治12年頃、まず自宅で唐手を教え始めた。当時の弟子は、花城長茂、久手堅憲由などが知られている。また、明治14年(1881年)頃からは、琉球王族の本部御殿に出向いて、本部朝勇、本部朝基兄弟に唐手を教授した。以上が、糸洲の初期の弟子たちである。 明治30年代には、知花朝信(明治32年入門)、摩文仁賢和(明治36年入門)、徳田安文、大城朝恕、遠山寛賢、城間真繁らが糸洲の門をたたいており、彼らが糸洲の中後期の弟子たちと言える。遠山、大城、城間らは沖縄県師範学校の在学中に糸洲に師事したので、糸洲が師範学校で教え始めた明治38年(1905年)以降の弟子ということになる。 他に入門時期は不明ながら、喜屋武朝徳、船越義珍、屋比久孟伝、山川朝棟、喜納朝献、知念某、真喜屋某らも糸洲門下として知られており、おそらく明治20年代後半~30年代にかけて師事していたものと思われる。 糸洲は大変な努力家で、特に巻藁突きの稽古には熱心で、そのため稀にみる突き手であった。また、体重は150斤(90kg)あったという。武勇伝はあまり残されていないが、すぐれた研究家であり、幾つかの唐手の型を創作した。ピンアン初~五段は糸洲の作であり、ナイファンチ二、三段も糸洲の作という説がある。また、唐手の学校教育の採用にも尽力し、唐手の体育化ならびに近代化を推し進めた最初の一人であった。この点については、今日、賛否両論が存在するが、本来琉球士族の秘術であった唐手が糸洲の努力によって大いに普及したのは事実である。
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廃藩置県以後
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明治4年(1871年)7月14日(8月29日) - 廃藩置県に伴い、秋田県・本荘県・岩崎県・亀田県・矢島県を設置(これを記念して8月29日は県の記念日となっている)。 11月2日(12月13日) - 第1次府県統合に伴い、上記5県と江刺県のうち鹿角郡全域、および由利郡の山形県管轄分を併せて秋田県(第2次)を設置。県令・権令の発令はなく、江刺県大参事の村上光雄が秋田県参事に任じられる。 11月14日(12月21日) - 久保田藩の飛び地からそのまま秋田県管下となっていた、下野国河内郡の7ヶ村が宇都宮県へ、同都賀郡の4ヶ村が栃木県へ移管される。これにより、十和田湖上の境界未定箇所を除き現在の県域が確定(十和田湖上の確定は2008年)。 12月26日(1872年2月4日) - 初代秋田県権令に侍従の島義勇が就任。当面は東京築地新富町の秋田県支庁にて勤務。 明治5年(1872年)2月26日(4月3日) - 島権令、秋田長野町の旧佐竹北家邸に入る。 3月13日(4月20日) - 久保田城本丸に秋田県庁を開庁。 7月20日(8月23日) - 第2代秋田県令に宮内大丞の杉孫七郎が任命される。 10月12日(11月12日) - 県庁を秋田東根小屋町の本部学校(旧明徳館)へ移す。 1873年(明治6年)2月18日 - 秋田東根小屋町に秋田県初の公立小学校(変則小学校、後の日新学校)が設立される。 5月? - 第3代秋田県権令に木更津県参事の国司仙吉が任命される。 8月24日 - 県庁聴訟課より出火し庁舎全焼。下中城の渋江邸に県庁を移す。 9月10日 - 日新学校内に洋学科を増設、洋学校(秋田県立秋田高等学校の前身)として開校。 10月1日 - 秋田上中城町に教員養成のための伝習学校(秋田大学教育文化学部の前身)を設立。 11月27日 - 秋田長野町の空き官舎(旧佐竹北家邸、初代島権令の離任後は使われていなかった)を改築して県庁とする。 12月 - 秋田五丁目横町に聴訟課監視掛付属屯所を設立し「巡邏逮捕之事務取扱」を発令。秋田中央警察署の起源とされる。 1874年(明治7年)1月22日 - 県病院を開設。 2月2日 - 遐邇新聞(秋田魁新報の前身)が創刊。 3月25日 - 秋田郵便取扱所を開設。 5月12日 - 秋田東根小屋町の旧県庁跡に、伝習学校と洋学校を併せた太平学校の校舎が新築落成。 7月1日 - 太平学校が開校。 8月 - 羽州街道・雄物川・米代川を二等道路・河川(県費で維持管理する道路・河川)とする。 1875年(明治8年) - 県庁内に警察署を、秋田町・大館町・横手町に警察出張所を、県内35か所に分屯所を設立。3月5日 - 北国街道(酒田街道)が二等道路に昇格する。 5月19日 - 第4代秋田県権令に工部省記録局長の石田英吉が任命される。 1876年(明治9年)2月29日 - 秋田県聴訟課を秋田県裁判所と改め県庁内に開設する。 3月秋田土手谷地町の佐竹義純邸を県が購入し秋田博物館とする。 八橋村の官有地3,888坪を県が確保し、八橋植物園を創設する。 4月県庁警察署内にあった第一警察出張所が秋田大町三丁目に庁舎新築し、秋田警察署となる。 広小路が二等道路に昇格する。 12月 - 秋田県裁判所を青森裁判所秋田支庁とし、秋田区裁判所と共に県庁内で事務を行う。 1877年(明治10年)1月 - 秋田東根小屋町に裁判所庁舎を新築し、青森裁判所秋田支庁・秋田区裁判所とも移転。 1月15日 - 太平学校が焼失する。 4月 - 青森裁判所の弘前移転を受けて、青森裁判所秋田支庁を弘前裁判所秋田支庁に改める。 5月15日 - 秋田博物館にて第1回秋田博覧会を開催する。 1878年(明治11年)4月12日 - 太平学校を同地に再建する。 4月17日太平学校を秋田県師範学校と改称する。 県内の区長・戸長・町村総代人、計36人を集めて県会を設立。 8月 - 八橋植物園に秋田博物館を新築移転。 8月10日-10月8日 - 八橋植物園にて第2回秋田博覧会を開催。 11月29日 - 第1回種子交換会(秋田県種苗交換会の前身)開催。 12月10日 - 秋田電信分局が開局。 12月23日 - 郡区町村編制法施行にともない、秋田郡を分割して北秋田郡と南秋田郡を設置。 1879年(明治12年)1月4日 - 秋田茶町菊ノ丁に第四十八国立銀行(秋田銀行の前身)が開業。 2月下旬 - 第1回県会議員選挙が行われ、33人が選出される。 3月20日 - 第1回秋田県議会が秋田東根小屋町の秋田県師範学校にて開会。 1880年(明治13年)4月19日 - 秋田土手長町に県庁新庁舎が落成。昭和32年に全焼するまで使用された。 1889年(明治22年)4月1日 - 市制・町村制施行により明治の大合併が行われる。県内では南秋田郡秋田町が唯一市制施行し、秋田市となる。 7月3日 - 秋田馬車鉄道(秋田市電の前身)、秋田・土崎間で運行開始。 1895年(明治28年)5月3日 - 増田銀行(北都銀行の前身)が開業。 1898年(明治31年)9月20日 - 歩兵第17連隊が仙台から秋田への移駐を完了。 1899年(明治32年)6月21日 - 陣場駅・白沢駅(県内初の鉄道駅)が開業。 1901年(明治34年)11月14日 - 近江谷発電所が秋田市、南秋田郡土崎港町に電力供給を開始。 1902年(明治35年)10月21日 - 秋田駅が開業。 1905年(明治38年) - 和井内貞行がヒメマス養殖に成功。9月14日 - 奥羽本線全線開通。 1907年(明治40年)12月26日 - 秋田郵便局にて秋田市内電話交換業務を開始(加入数201名)。 1910年(明治43年)8月11日 - 大水害、死者25名。 1911年(明治44年)4月30日 - 秋田鉱山専門学校(秋田大学国際資源学部・理工学部の前身)が開校。 1912年(明治45年)1月28日 - 白瀬矗が南極に日章旗を掲揚。 1912年(大正元年)9月23日 - 台風により死者23名。 1914年(大正3年)3月15日 - 強首地震、死者94名。 5月26日 - 日本石油黒川油田でロータリー式五号井が大噴油。 1916年(大正5年)12月16日 - 船川軽便線(現在の男鹿線)全線開通。 1917年(大正6年)8月1日 - 日本銀行秋田支店を開設。 1919年(大正8年)8月24日 - 小坂鉱山労働争議。 1921年(大正10年)2月25日 - 『種蒔く人』発行。 1924年(大正13年)7月31日 - 羽越本線全線開通。 11月12日 - 横黒線(現在の北上線)全線開通。 1926年(大正15年)3月8日 - 小坂鉱山煙害賠償労働争議。 1929年(昭和4年)11月27日 - 前田村争議が和解。 1931年(昭和6年)10月17日 - 花輪線全線開通。 1932年(昭和7年)7月5日 - NHK秋田放送局が放送開始。 1935年(昭和10年)3月20日 - 日本鉱業八橋油田で上総式四号井が大噴油。 1936年(昭和11年)7月30日 - 五能線全線開通。 11月20日 - 尾去沢鉱山鉱滓ダム決壊、死者・行方不明者380名。 1938年(昭和13年)4月27日 - 雄物川放水路の掘削工事完成。 10月21日 - 矢島線全線開通。 1939年(昭和14年)5月1日 - 男鹿地震、死者26名。 1940年(昭和15年)9月26日 - 山本郡能代港町・東雲村・榊村が合併・市制施行し、能代市となる。 1941年(昭和16年)10月20日 - 秋田・第四十八・湯沢の各銀行が合併して秋田銀行となる。 1944年(昭和19年)5月9日 - 花岡鉱山で落盤、遭難22名。 9月18日 - 台風により死傷者5名。 1945年(昭和20年)7月5日 - 第1次横手空襲。 8月10日 - 第2次横手空襲。 8月14日 - 土崎空襲。 1949年(昭和24年)5月31日 - 秋田師範学校、秋田青年師範学校および秋田鉱山専門学校を母体として、秋田大学が発足。 1951年(昭和26年)1月19日 - 秋田港を重要港湾に指定。 4月1日 - 旧横手市、大館市発足。 1954年(昭和29年)3月31日 - 旧男鹿市、旧湯沢市、本荘市発足。 5月3日 - 大曲市発足。 1957年(昭和32年)8月12日 - 県庁全焼。 1959年(昭和34年)12月 - 秋田市川尻町字八千刈(現在の山王四丁目)に新築した県庁新庁舎へ移転。 1961年(昭和36年)9月26日 - 秋田空港が開港。 10月8日-13日 - 第16回国民体育大会(秋田国体(民泊国体、まごころ国体))秋季大会を開催。 1964年(昭和39年)9月15日 - 八郎潟干陸式、大潟村発足。 1965年(昭和40年)11月1日 - 秋田湾地域を新産業都市に指定。 1966年(昭和41年)10月20日 - 田沢湖線全線開通。 1970年(昭和45年)4月1日 - 秋田大学に医学部を設置。 1972年(昭和47年)4月1日 - 鹿角市発足。 「切浜事件」が発生。兵庫県の海岸から密入国した北朝鮮の工作員が、秋田県にかほ市の海岸において、秋田県警に逮捕された。 1978年(昭和53年)11月15日 - 大沢郷郵便局および強首郵便局の電話交換業務廃止。秋田県内の電話通話が完全自動化。 1981年(昭和56年)6月26日 - 新秋田空港が河辺郡雄和町(現:秋田市)に開港。 8月5日 - 男鹿脇本事件が発生。北朝鮮工作員が逮捕された。 1982年(昭和57年)8月4日 - 秋田市、河辺郡河辺町、雄和町がテクノポリス開発構想策定地域に指定。 1983年(昭和58年)5月26日 - 日本海中部地震が発生、県内で死者83名。 1984年(昭和59年)7月31日-8月20日 - 昭和59年度全国高校総合体育大会を開催。 1986年(昭和61年)7月30日 - 東北自動車道の秋田県区間が開通し、青森IC-浦和IC間が開通する。 11月20日 - 鹿角市がテレトピア構想モデル都市に選定。 1989年(平成元年)4月1日 - 秋田内陸線全線開通。 1993年(平成5年)4月1日 - 羽後銀行と秋田あけぼの銀行が合併し、北都銀行が発足。 1997年(平成9年)3月22日 - 秋田新幹線開業。 4月1日 - 秋田市が中核市へ移行。 11月13日 - 秋田自動車道全線開通。 1998年(平成10年)7月18日 - 大館能代空港開港。 1999年(平成11年)7月9日 - 秋田港に定期フェリー便就航(新日本海フェリー:苫小牧 - 秋田 - 新潟 - 敦賀)。 2000年(平成12年)8月22日-25日 - 「2000年国連軍縮秋田会議」を開催。 2001年(平成13年)8月16日-26日 - ワールドゲームズ2001秋田大会を開催。 10月29日 - 秋田空港に国際定期便就航(大韓航空:秋田 - ソウル)。 2005年(平成17年)3月22日 - 男鹿市・若美町が合併し、新たに男鹿市となる。湯沢市と雄勝郡2町1村が合併し、新たに湯沢市となる。由利本荘市、潟上市、大仙市、北秋田市発足。 9月20日 - 仙北市発足。 10月1日 - 横手市と平鹿郡5町2村が合併し、新たに横手市となる。にかほ市発足。 2006年(平成18年)3月21日 - 能代市と二ツ井町が合併し、新たに能代市となる。 2007年(平成19年)1月27日-10月9日 - 第62回国民体育大会(秋田わか杉国体)を開催。 10月13日-15日 - 第7回全国障害者スポーツ大会(秋田わか杉大会)を開催。 2008年(平成20年)12月25日 - 廃藩置県以来境界未定のままであった、十和田湖上の秋田県・青森県境が確定する。 2017年(平成29年)4月1日 - 県全体の推計人口が100万人を下回る。
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