廃藩置県と留守政府
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 04:15 UTC 版)
従来、留守政府の改革については、「大臣・参議・大輔盟約書」第6条に違反して岩倉使節団の面々を無視する形で留守政府が功に逸って無秩序勝手に行い、その結果様々な矛盾を引き起こして政府内では明治六年政変を、政府外では士族反乱や農民一揆を引き起こす原因となったとする見方があった。 確かに学制や徴兵令・地租改正などは大規模な改革に相当し、一見すると盟約書に反するようにも見えるが、現在ではこれは第7条によって規定された後始末の一環であり、岩倉使節団も事前に大筋で了承していたとする説が出されている。 そもそも、廃藩置県によって従来の行政・司法システムを根本的に解体した結果、それに代替するシステムを早急に制定する必要性があった。学制や徴兵制は既存の藩校・藩兵に代替して作られた教育・軍事システムの一環であり、その準備は使節団出発前から行われていたものである。地租改正も田畑永代売買禁止令の廃止の方向が定まった明治4年9月に大久保利通(大蔵卿)と井上馨(同大輔)によってその方針(「地所売買放禁分一収税施設之儀正院伺」)が正院に諮られ、使節団出発直前に井上と吉田清成によってその原案が作成されていた(そもそも明治政府が実施した初期の施策で岩倉使節団出発前に構想として存在しなかったのは、出発後に井上と吉田によって初めて構想され、使節団帰国後に政策として形成された最後に相当する秩禄処分のみであったと言われている)。また、廃藩置県や地租改正を行えば、数百年に及ぶ封建制及び土地支配のあり方が破壊されてしまうものであり、武士・農民層に反政府行動に向かわせる可能性が高い性格の改革であった。この時期の政府がこの路線を貫徹させようとすれば、誰が指導者であったとしても結果的に士族反乱や農民一揆は避けられなかったと言える。 そして、留守政府の施策中において、使節団出発以前に構想されていなかった唯一の政策が使節団メンバーとの対立を引き起こした「西郷隆盛の遣韓問題」であったのである。
※この「廃藩置県と留守政府」の解説は、「留守政府」の解説の一部です。
「廃藩置県と留守政府」を含む「留守政府」の記事については、「留守政府」の概要を参照ください。
- 廃藩置県と留守政府のページへのリンク