廃藩置県以降
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1871年9月24日(明治4年8月10日)、陸軍中尉を拝命し、近衛3番砲隊に勤務。1872年9月6日(明治5年8月4日)、陸軍大尉に昇進し、同9月11日(旧暦8月9日)、司法省9等出仕となる。以後累進し、松山裁判所宇和島支庁判事長に在職中に死去した。西南戦争時は、鹿児島裁判所に二級判事補として勤務していたが、鹿児島県令大山綱良の鹿児島県逆徒征討総督有栖川宮熾仁親王宛の書翰を、使者として長崎にもたらしている。また判事としては、1882年(明治15年)12月25日、東宇和郡の農民が「無役地」の共有権回復を求めた民事訴訟第一審に判決を言い渡している。1884年(明治17年)4月4日死去。
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廃藩置県以降
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明治4年7月の廃藩置県後、兵部権大丞として新政府に出仕し、翌明治5年(1872年)には陸軍裁判長に転任し陸軍少将に任命、明治6年(1873年)には更なる転任で熊本鎮台司令長官となる。同年に発布された徴兵令を巡る対応が人事に絡み、反対派の桐野利秋が辞任し賛成派の谷を徴兵令を作成した山縣有朋が任じた事情があった。谷は軍の近代化に取り組み部隊にフランス式訓練を施す中、明治六年政変で板垣が下野したことで高知出身の軍人も多数下野、鎮台に出火騒ぎや部隊暴動が起こり、動揺をもたらした板垣との確執を強めていった。 明治7年(1874年)2月に佐賀の乱が勃発すると政府から鎮圧命令を受け取ったが、岩村高俊県令の護衛として派遣した部下の山川浩率いる第11大隊が佐賀城で不平士族に包囲され、大隊約300人のうち半分近くを失う痛手を負った。出鼻は挫かれたが、乱自体は大阪・東京鎮台からの増援で鎮圧されている。 同年5月から12月の台湾出兵に際しては、陸軍中将・西郷従道の下に海軍少将・赤松則良と共に参戦した。その際熊本鎮台司令長官から参軍に転任したが、出兵後は政府の方針に不満を抱き、高知県に逼塞、同郷の佐々木高行から帰京を促される中、明治9年(1876年)10月の神風連の乱で不平士族に殺害された、種田政明の後任として、11月に再び熊本鎮台司令長官となり、樺山資紀が参謀長、児玉源太郎・川上操六が参謀として脇を固めた。この人事は祖先に山崎闇斎門下の大学者谷秦山をもち、その精神を叩き込まれている谷であれば薩軍につくことはあるまいと見込まれてのものであったという。 明治10年(1877年)の西南戦争の際には、52日にわたって薩軍の攻撃から熊本城を死守し、政府軍の勝利に貢献した。薩軍からは反政府派の一人とみなされ、樺山と共に寝返りを期待されていたが、谷も樺山も薩軍との対決を選び、籠城を決行した。戦いは2月19日に熊本城から出火、天守閣を始め主要施設を失い兵糧が欠乏し、22日から開始された薩軍の攻撃を必死に耐え凌ぐ中、銃撃で樺山が負傷、与倉知実も戦死する苦戦になったが、薩軍が無計画かつバラバラに攻撃したこと、対する鎮台兵が大砲・銃火器を活用した火力集中で応戦したことが功を奏し、侵入を防いだ。薩軍は翌23日にも攻撃したが失敗したために強襲を諦め、24日から包囲に切り替えた。 包囲中も鎮台兵と薩軍の攻防は続いたが、3月に入ると北から救援軍が迫り、海路からも別働隊(衝背軍)が南の八代に上陸し熊本城に近付いた。好機と見た谷は樺山・児玉らと相談の上で4月8日に奥保鞏を隊長とする外部との連絡部隊を城外へ放ち、衝背軍との合流に成功した。3日後の11日に谷は狙撃され重傷を負ったが、14日に旧知の山川が衝背軍の一部隊を率いて熊本城へ入城、包囲は解放された。籠城後も休む暇はなく山縣の指揮下で九州を転戦、鎮台兵は19日の城東会戦で薩軍と戦い、大分方面へ転戦し、野村忍介の部隊とも激戦を展開、9月の城山の戦いで終止符を打った。西南戦争の勝利で谷の名声は高まり政府や明治天皇の信頼を獲得、軍部からも一目置かれるようになっていった。
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廃藩置県以降
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初め、土佐郡潮江村に住し、のち高知市薊野の東照宮の神職として奉職。陽貴山の麓(現・掛川神社附近)に居を移す。 明治31年(1898年)、五藤正亮の歿後、跡を引継ぎ高知県立第一中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)の居合術教師を拝命。 明治38年(1905年)8月1日死去。享年61歳。
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廃藩置県以降
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1872年(明治4年)旧12月の行政区画地図における美々津県及び都城県 廃藩置県当初(1871年)、現在の宮崎県域には飫肥県・延岡県・高鍋県・佐土原県・鹿児島県・人吉県が設置されるが、1871年の府県合併によって美々津県・都城県に再編。その後1873年に旧日向国の領域をもって宮崎県が設置された(初期宮崎県と呼称される)。県政のため、県庁を県の中央部に設置する必要が認められた結果、当時は寒村であった宮崎郡上別府村(現在地)に県庁が移された。1876年8月21日に宮崎県は鹿児島県に合併され、宮崎県庁は支庁へ格下げされた。 1873年1月15日 - 美々津県と都城県の東半分が合併し、ほぼ旧日向国の領域に宮崎県が置かれる。県名は、県庁の置かれた宮崎郡による。 1876年8月21日 - 宮崎県が鹿児島県に合併され、宮崎支庁が置かれる。 1877年 - 西南戦争により当時鹿児島県であった宮崎県域も戦場となり荒廃する。戦後、鹿児島県が薩摩・大隅地域の復興を優先し日向地域(宮崎県域)の復興を蔑ろにした為、日向国民(宮崎県民)の鹿児島県に対する不信・反感が勃発し、宮崎県再置(分県運動)の一因となった。 1879年 - 宮崎支庁管内に宮崎、那珂、児湯、臼杵、諸県の五郡が置かれ、宮崎支庁が廃止される。郡役所は、宮崎と那珂は上別府(宮崎支庁の位置)、児湯は高鍋、臼杵は岡富(現在の延岡市)、諸県は上長飯(現在の都城市)に置かれる。 1881年 - 児湯郡役所を廃止し、宮崎郡役所へ統合。
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