廃藩置県以降とは? わかりやすく解説

廃藩置県以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/12 04:02 UTC 版)

吉本祐雄」の記事における「廃藩置県以降」の解説

1871年9月24日明治4年8月10日)、陸軍中尉拝命し、近衛3番砲隊に勤務1872年9月6日明治5年8月4日)、陸軍大尉昇進し、同9月11日旧暦8月9日)、司法省9等出仕となる。以後累進し松山裁判所宇和島支庁判事長に在職中死去した西南戦争時は、鹿児島裁判所二級判事補として勤務していたが、鹿児島県大山綱良鹿児島県逆徒征討総督有栖川宮熾仁親王宛の書翰を、使者として長崎もたらしている。また判事としては、1882年明治15年12月25日東宇和郡農民が「無役地」の共有権回復求めた民事訴訟第一審判決言い渡している。1884年明治17年4月4日死去

※この「廃藩置県以降」の解説は、「吉本祐雄」の解説の一部です。
「廃藩置県以降」を含む「吉本祐雄」の記事については、「吉本祐雄」の概要を参照ください。


廃藩置県以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:48 UTC 版)

谷干城」の記事における「廃藩置県以降」の解説

明治4年7月廃藩置県後兵部権大丞として新政府に出仕し、翌明治5年1872年)には陸軍裁判長転任し陸軍少将任命明治6年1873年)には更なる転任熊本鎮台司令長官となる。同年発布され徴兵令を巡る対応が人事絡み反対派桐野利秋辞任し賛成派の谷を徴兵令作成した山縣有朋任じた事情があった。谷は軍の近代化取り組み部隊フランス式訓練を施す中、明治六年政変板垣下野したことで高知出身軍人多数下野鎮台出火騒ぎ部隊暴動起こり動揺もたらした板垣との確執強めていった。 明治7年1874年2月佐賀の乱勃発する政府から鎮圧命令受け取ったが、岩村高俊県令護衛として派遣した部下山川浩率いる第11大隊佐賀城不平士族包囲され大隊300人のうち半分近くを失う痛手負った出鼻は挫かれたが、乱自体大阪東京鎮台からの増援鎮圧されている。 同年5月から12月台湾出兵に際しては、陸軍中将西郷従道の下に海軍少将赤松則良と共に参戦したその際熊本鎮台司令長官から参軍転任したが、出兵後は政府の方針に不満を抱き高知県逼塞同郷佐々木高行から帰京促される中、明治9年1876年10月神風連の乱不平士族殺害された、種田政明後任として、11月に再び熊本鎮台司令長官となり、樺山資紀参謀長児玉源太郎川上操六参謀として脇を固めたこの人事は祖先山崎闇斎門下大学者谷秦山をもち、その精神叩き込まれている谷であれば薩軍につくことはあるまいと見込まれてのものであったという。 明治10年1877年)の西南戦争の際には、52日にわたって薩軍攻撃から熊本城死守し、政府軍勝利貢献した薩軍からは反政府派一人みなされ樺山と共に寝返り期待されていたが、谷も樺山薩軍との対決選び籠城決行した戦い2月19日熊本城から出火天守閣始め主要施設失い兵糧欠乏し22日から開始され薩軍攻撃必死に耐え凌ぐ中、銃撃樺山負傷与倉知実戦死する苦戦になったが、薩軍無計画かつバラバラ攻撃したこと、対す鎮台兵大砲銃火器活用した火力集中応戦したことが功を奏し侵入防いだ薩軍は翌23日にも攻撃した失敗したために強襲諦め24日から包囲切り替えた包囲中も鎮台兵薩軍攻防続いたが、3月に入ると北から救援軍迫り海路からも別働隊(衝背軍)が南の八代上陸し熊本城近付いた好機見た谷は樺山児玉らと相談の上4月8日奥保鞏隊長とする外部との連絡部隊城外放ち、衝背軍との合流成功した3日後の11日に谷は狙撃され重傷負ったが、14日旧知山川が衝背軍の一部隊を率いて熊本城入城包囲解放された。籠城後も休む暇はなく山縣指揮下で九州転戦鎮台兵19日城東会戦薩軍戦い、大分方面転戦し野村忍介部隊とも激戦を展開、9月城山の戦い終止符打った西南戦争勝利で谷の名声高まり政府明治天皇信頼獲得軍部からも一目置かれるようになっていった。

※この「廃藩置県以降」の解説は、「谷干城」の解説の一部です。
「廃藩置県以降」を含む「谷干城」の記事については、「谷干城」の概要を参照ください。


廃藩置県以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/07 02:24 UTC 版)

谷村自庸」の記事における「廃藩置県以降」の解説

初め土佐郡潮江村住し、のち高知市薊野東照宮神職として奉職。陽貴山の麓(現・掛川神社附近)に居を移す。 明治31年(1898年)、五藤正亮歿後、跡を引継ぎ高知県第一中学校(現・高知県高知追手前高等学校)の居合術教師拝命明治38年(1905年)8月1日死去享年61歳

※この「廃藩置県以降」の解説は、「谷村自庸」の解説の一部です。
「廃藩置県以降」を含む「谷村自庸」の記事については、「谷村自庸」の概要を参照ください。


廃藩置県以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:33 UTC 版)

宮崎県」の記事における「廃藩置県以降」の解説

1872年明治4年旧12月の行政区画地図における美々津県及び都城県 廃藩置県当初1871年)、現在の宮崎県域には飫肥県延岡県高鍋県佐土原県鹿児島県人吉県設置されるが、1871年府県合併によって美々津県都城県再編その後1873年旧日国の領域をもって宮崎県設置された(初期宮崎県呼称される)。県政のため、県庁を県の中央部設置する必要が認められ結果当時寒村であった宮崎郡上別府現在地)に県庁移された。1876年8月21日宮崎県鹿児島県合併され宮崎県庁支庁格下げされた。 1873年1月15日 - 美々津県都城県の東半分合併し、ほぼ旧日国の領域宮崎県置かれる県名は、県庁置かれ宮崎郡よる。 1876年8月21日 - 宮崎県鹿児島県合併され宮崎支庁置かれる1877年 - 西南戦争により当時鹿児島県であった宮崎県域も戦場となり荒廃する戦後鹿児島県薩摩大隅地域復興優先し日向地域宮崎県域)の復興蔑ろにした為、日向国民(宮崎県民)の鹿児島県対す不信反感勃発し宮崎県再置(分県運動)の一因となった1879年 - 宮崎支庁管内宮崎那珂、児湯、臼杵諸県の五郡が置かれ宮崎支庁廃止される郡役所は、宮崎那珂上別府宮崎支庁位置)、児湯は高鍋臼杵岡富現在の延岡市)、諸県上長飯(現在の都城市)に置かれる1881年 - 児湯郡役所廃止し宮崎郡役所統合

※この「廃藩置県以降」の解説は、「宮崎県」の解説の一部です。
「廃藩置県以降」を含む「宮崎県」の記事については、「宮崎県」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「廃藩置県以降」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「廃藩置県以降」の関連用語

廃藩置県以降のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



廃藩置県以降のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの吉本祐雄 (改訂履歴)、谷干城 (改訂履歴)、谷村自庸 (改訂履歴)、宮崎県 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS